yomoyomoの読書記録(2003年上半期)


団鬼六「真剣師小池重明の光と影」(小学館文庫)

 小池重明については「真剣師小池重明」という評伝の決定版、「真剣師小池重明疾風三十一番勝負」という実戦集の決定版が既に出ている。また本書の内容は後者と一部重なっており、「真剣師小池重明」の映画化に合わせて編まれたものであることは容易に想像でき、またそう考えるといささか興ざめするが、とにかく団鬼六が書いた小池重明ものとなれば買わないわけにはいかない。何度も書いているが、「真剣師小池重明」は畢生の名作である。まず何よりこれを読まれることをお勧めする。その後更に小池重明について読みたければ、将棋を指される方は「真剣師小池重明疾風三十一番勝負」、そうでない方は本書の順に読み進むのが良いだろう。

 団鬼六が「真剣師小池重明」を債権者の追及から逃げ、ホテルを転々としながら書き継いだことは本書を読んではじめて知った。もちろん彼が老後の道楽のつもりで『将棋ジャーナル』誌の社主になり、結果として借財を背負うことになったことは知っていたが、「真剣師小池重明」を読んでもそこに書かれているのは飽くまで小池重明のパトロン役としての作者であったから意外であった。逆にいえば、そうした状態で小池重明について書くことができた著者は、その小池重明が将棋と出会ったのと同じ幸福を得たといえるのかもしれない。大げさに書けば、だが。

 ある人には徹底して嫌われ、また一方である人には徹底して愛された小池重明という「能ありて識なし」「人間はクズだが将棋は…」の典型といえる稀代の勝負師の生涯は紛れもなく破滅的なものだったが、結果として金をたかられながらもどうしても見捨てることができなかった団鬼六という書き手を得たことで、こうして後世に彼の人生と将棋が残ることになった。何よりその巡り合わせに感謝したい。鬼六先生は絶対に認めないだろうが、小池晩年の傑作となった「果たし合い」にしても、実は小池が負けるとは思っていなかったのではないか。

 本書はその「果たし合い」の盤外の詳細、著者をはじめとする小池が生前迷惑をかけた人達による追悼座談会、そして小池自身による自叙伝の一部が読めるといったところが前二冊との違いといえる。ただ後ろ二つについては、本書に収録されたものが完全版なのかよく分からないのは少し不満である。当方の記憶違いでなければ、小池の自叙伝は『将棋ジャーナル』誌掲載時「放浪記」といったタイトルがついていたはずだが、本書にはそうした記述はない。また追悼座談会にしても、「追悼座談会というのは故人の人柄、功績を讃えるのが普通ですが、ここぞとばかり故人の悪口いいたい放題の酔談会になってしまいました」と書く通りの悲しくも痛快な読み物(何しろタイトルが「小池よ、あなたは悪かった」ですから)になっているが、以前他で読んだときには武者野勝巳のプロ入り特例に関する発言の中に、「人格が正しい人」といった言葉があったはずだが本書に収録されたものにはそれがない。それを読んだときには、社会性の欠損した連中ばかりの将棋界の人間が何を「人格」だ、この五流棋士の分際でと激しい怒りを覚えたものだが、これも僕の記憶違いなのかな? ただ、たとえ小池のプロ入りが棋士総会に諮られ、プロ棋士全員の投票による採決が取られていたとしても、やはり過半数の支持は得られなかっただろう。これは認識しておかなくてはならない。

 僕自身どうして小池重明という人物にここまで惹かれるのか分からないところもある。しかし、本書において小池自身が綴る、若い頃にプロ入りを勧められ、あっさりそれを蹴ったのに後年プロ入りを熱望し、それが適わず破滅の道を辿るという人生の皮肉、著者が引用する太宰治の「貧の意地」の一節、「駄目な男というのは舞いこんできた幸福を受けとるのさえ、下手くそを極める」というのはそのままワタシ自身にもあてはまることである。ちょうどその思いから逃れられないところに読んだ本書からは、その本筋から離れたところで暗く苦い読後感を得ることとなった。


渋谷陽一、松村雄策「定本渋松対談」(ロッキング・オン社)

 昨年創刊30周年を迎えたロック雑誌 rockin' on において長らく続いているコーナーである渋松対談の本。渋松対談をまとめた本としては「40過ぎてからのロック」、本書と同時に刊行された「渋松対談Z」があるが、これらに収録されたものの大部分は、当方が rockin' on の読者になった(1989年)後のものであり、70年代後期から80年代半ばまでの渋松を収録した本書は長らく絶版、というか元々通常のルートで購入できる書籍ではなかったため読んだことがなかった。いかにも大類信という感じの装丁そのままでの復刻に感謝したい。

 ワタシも rockin' on の読者を十数年続けてきたことになり、それを考えると悲しいやら情けない気持ちにもなるのだが、ワタシが読者になった時点で既に渋松対談はスタイルが固まっていた。それだけに初期の渋松対談は以前から読んでみたかったのだが、これが「○○をめぐって」という形式で当時の新譜について二人がもたもた語るといったスタイルで、どうして渋松対談でロックの話を読まされなければならんのか、と倒錯した感想をもったりもした。

 渋谷陽一は「当時のロッキング・オンのライターは松村、岩谷、橘川と、ほとんどロックに関しては終わってしまった年寄りばかりで、新譜への対応能力はまったくといっていいくらいなかった。こうしたライターの原稿だけでロック雑誌を作りあげるのは不可能なのである。ライター当人達には全く危機感はなかったが、編集長としてはかなり追いつめられていた。その苦しまぎれがこの渋松対談なのである(あとがき)」と書いている。何だそうだったのか。ちなみにこの「岩谷」とは、「電波」だの「バカ」だの「害悪」だのめちゃくちゃ言われ放題だった(いや、もちろんワタシもその一部を担いましたが)岩谷宏のことである。

 予想はしていたことであるが、渋谷陽一は今よりも暑苦しく理屈っぽいし、松村雄策にしてもやはりこの頃は饒舌に語っていたりするのだが、1981年終わりあたりからの現在のリズムがでてきて、時期を置いて再開した1985年にはすっかり現在のスタイルになっているのが面白い。考えてみれば1981年は、彼らは30前後であり、現在のワタシの年齢と合致する。そうか、このあたりからこんな感じになるのか、と考えると少し…心配にもなる。

 しかし、王貞治が715号ホームランを打った日の対談だとか、松田聖子の結婚式(一回目ですね)テレビ中継の視聴率が38%だとかいう記述を見ると何かくらくら来るし、あとバイトの山崎(本文執筆時点の rockin' on 編集長)だとか広瀬といった固有名詞が注釈なしで出てくるとニヤニヤしてしまう。まあ、そういう本である。あと「ポール・マッカートニー=長島茂雄」説は70年代に渋谷陽一が口にしていたという発見もあった。


金子和寛、塩沢和佳監修「今からでも間に合う! 1日で終わる白色確定申告」(新紀元社)

 今週末、正確に言えば金曜から月曜まで確定申告に費やした。『Wiki Way』の翻訳により確定申告しなければいけない額の副収入があったということだ。確定申告を行うのは今回がはじめてだが、やらなければならないというのはそれこそ半年前から分かっていたことであり、今更慌てるのも無様な話である。

 改めて思い知らされたのが、こうした分野における自分の実務処理能力の欠如。せっかく今年から申告書をウェブ上で作成できるようになったというのに利用できないのは仕方ないとして(だってワタシ、カラープリンタ持たんのです)、税務署で「所得税の確定申告の手引き」の冊子をもらって申告書を書いてみようとするもどうにも進まず、結局本書のような本に散財する始末。

 それだけならまだ良い。情けないのは「1日で終わる」と謳う本書を見ながらやっても三日はかかっているということ。何度かゲシュタルト崩壊を起こしそうになった。手引書を読んでもダメ、解説書を読んでもダメとは、ワタシはダメ人間なのか! と朝の5時に発泡酒片手に泣きそうになったぞ。いやはや、毎年青色で確定申告している人を尊敬します。まあ、元々プリンタはおろか FAX も持たずに翻訳の仕事をする時点で間違っているわけですが。

 何とか仕上げて税務署に出向いたものの、基本的なところに間違いがあり、十数カ所訂正させられた。税務署の方は寛大だったが、それだけの数の訂正印乱れ打ち状態の申告書などあまりに悲しいので書き直しさせてもらった(実はそれも間違い、訂正印を…)。

 ここまで全然書評になっていないが、上記の通りあまり役に立ったとはいえません。もちろん上記の通り、読み手がダメだというのが大きいのだが、せっかくこの本にあるように収支内訳書を書いていったのに、税務署の人、見もしないんだな! 領収書を取ってなかったため(その時点でダメ)、これ書くのに苦労したし経費に大した金額を書きこめなかったのに、内訳見てくれないとは。これなら翻訳業で許されるという噂の40パーセントきっちり(以下略)。しかし、税務署というと「キミィ、こんなのが経費として認められると思ってんの?」と署員に詰問されてバトルというステロタイプ的イメージがあったのだが、白色まで絞っていては仕事が終わらんということか?

 あと微妙に痒いところに手が届かない印象もあった。例えば、住民税の徴収方法。サラリーマンならここを「普通徴収」を明示的に選択しなければならないことを書かないでどうするよ、とか(その理由はここには書きません)。

 そのように自分のダメさ加減に打ちのめされてしまったわけだが、必死に読んでいてふと緊張が緩んだ箇所があったので引用しておく。

日常的に使うメガネやコンタクトレンズは、個人的に使用するものなので必要経費にはなりません。カツラもダメです。(33ページ)

 カツラを必要経費にして白色確定申告する人間が一体どこにいるんだよ!!


ナンシー関他「文藝別冊 ナンシー関―トリビュート特集」(河出書房新社)

 Wish You Were Here...

 ナンシー関が死んだとき、優れた追悼文がいくつも出た。個人的に一番すごいと思ったのは2ちゃんねるにおける文体模写による「遺筆」であったが、老大家の作家のようにある程度死が読めている人と違い、急逝としか言いようがないナンシー関の死に際してその本質をとらえた追悼文が多かったというのは、彼女の表現が一部の人間が言うように賞味期限の短いものではなく、しっかりと我々の深いところに切りこんでいたものだからだろう。林真理子のようなゲスの追悼文すら読めるものだったと記憶する。

 しかし、もうナンシー関はいない。週刊文春や週刊朝日や噂の真相を立ち読みしても、そこに彼女の連載はない。この欠落感は未だ大きい。当たり前だが、彼女のような存在はもう生まれ得ない。我々はときどき考える。彼女ならこの人をどう評すだろうか、どう収まりをつけてくれるだろうか。例えば少し前であればノーベル化学賞を受賞した田中さん、今ではあればボブ・サップ…「いつも心にナンシーを」とは素敵なフレーズだが、やはり彼女に頼っていたのだなあと思い至る。

 そうした意味でこの本の存在を知ると買うしかなかったわけだが、それほど楽しめなかった。優れた追悼文を書いていたのにここではよく分からない文章を書いているいとうせいこうのような人もいるし、ナンシー関についての分析が当を得ているものであっても、町山広美とリリー・フランキーの対談(これはよい)のタイトルだけでなく、つまるところは皆「Wish You Were Here」ということを書いているようにしか思えないからだ。これも当たり前のことだが、ナンシー関について書かれた優れた文章であっても、ナンシー関自身の優れた文章にはかなわない。

 改めて思ったのだが、文春でも朝日でもどこでもよい、ナンシー関のアンソロジーを出しなさい。


川本三郎「忘れられた女神たち」(筑摩書房)

 タルラ・バンクヘッドについて読みたかったので図書館で借りた本である(他に彼女について書かれた本、ご存知ありません?)。

 大体1920年代から1950年代にかけて活躍した女性達を取り上げたもので、題名にもある通り、少なくとも日本では一般に知られていない人ばかりである。本書が刊行されたのは1986年であるが、彼女達の認知は当時と変わってないだろう。

 20名に及ぶ多彩な顔ぶれといえるが、やはり女優、シンガーといったショービジネス関係、作家や画家などの表現関係が主で、政治家や事業家は一人も登場しない。これは当時女性達が置かれた状況を端的に表しているが、一部の例外を除けば、自らの境遇を生き抜く強い核を持った女性達ばかりで、当方がこうした伝記スタイルの読み物が好きであるというのもあるが、楽しく読めた。

 彼女達の核とは、それこそタルラ・バンクヘッドの「キャンディッド(率直さ)」などに体現される矜持である。本書に掲載されている彼女達の写真は、それぞれの美しさを湛えており、それは彼女達の意志の力でもあると思う。

 本書に描かれている人生は、単純な幸福とは遠いところにあるものばかりだ。しかし、そもそも単純な幸福なんてものがあるのか、筆者には分からない。もちろん当時の男性社会、白人社会を生き抜くのは大変なことだったろう。レナ・ホーンのように「アイス・ビューティー」の衣をまとわなければならない女性達もいた。それでもワタシのような女性嫌いをもってしても後味の良い読後感を得ることはできたのは、本書に登場する女性達の多くがそうした困難にそれぞれのやり方で対峙しており、安直な泣き言を言ってないからだろう。

 個人的にいくつか。「Gストリング殺人事件」のことは知っていたが、それを書いたのが約20年にわたりバーレスク・クイーンだったジプシー・ローズ・リーだったとは。彼女についての章は特にすがすがしい。あとメイベル・ノーマンド本人、並びにその周辺については岸田裁月さんの「悲惨な世界」における「私を愛した女優」「でぶ君の転落」に詳しいが、何より彼女の天性の「トムボーイ」ぶりが分かってよかった。あとマリオン・デイヴィスについては、オーソン・ウェルズの大傑作「市民ケーン」のイメージもあり、「才能も実力もない大根役者」という評価が定まっているが(このあたりについては同じく岸田さんの「バラのつぼみ」に詳しい)、この本ではコメディエンヌの才能はあったということになっており、「市民ケーン」を見て激怒するハーストの傍らで「いいの、どうせ、これ、私じゃないから」と冷静に言うくだりがあるがどうだろうね。まあ、著者自身『「物語作家」の特権として、多少の脚色をほどこしてある』と書いているくらいなので、全体的に少しは割り引く必要もあるのかもしれない。


ビョルン・ロンボルグ「環境危機をあおってはいけない――地球環境のホントの実態」(文藝春秋)


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初出公開: 2003年01月06日、 最終更新日: 2003年06月30日
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