ポール・オースター「幽霊たち」(新潮文庫)


 映画「ルル・オン・ザ・ブリッジ」の公開に伴い、近頃ポール・オースターの名前が採り上げられることが多い。それがきっかけというのでもないが、初めて彼の小説を読んでみた。彼が脚本を手がけた映画「スモーク」「ブルー・イン・ザ・フェイス」は既に観ている。前者は前評判が高すぎたせいか、当方の期待値を上回る出来には感じられず、いささか失望したのを覚えている。後者に関しては、ルー・リードが例の格調高い口調で喋るのを聞けただけで満足だったし、マドンナまでイカしたチョイ役で出演してるんだ、文句があろう筈はない。

 「幽霊たち」が日本で刊行されたのは今から十年ほど前で、当時書評をrockin' on誌で読んでいた。以来「幽霊たち」のことが気になっていたのだが、作者の名前と前述の映画とが結びつかず、「ルル・オン・ザ・ブリッジ」の紹介文を読んではじめて僕の中で両者が一致したという案配である。


 本題に入る前に周辺を迂回してしまったが、この小説、筋自体は非常に単純簡素である。登場人物も名前は全て色の名前が割り当てられているし、ここでそのまま粗筋を紹介してしまえば、「アイデンティティ」「不安」「抽象性」などという言葉を使っていかにもな図式的な解説ができてしまいそうである。

 しかし、僕がこの作品に深く魅了されたのは、そうした作品主題に依るものではない。作者が丹念に紡ぐ文体に対してである。書いてみるとなーんだ、となってしまうが、小説が小説である必然性というのは主題や思想哲学でなく作者が獲得した文体にまず結実する、と僕は最近思いはじめている。この小説はそれを分かりやすく裏付けてくれる。


 純粋な散文により構築された小説世界というのに久しぶりに出会った気がしたのだ。それは「幽霊たち」が映像的な小説か否か、ということには依らない。確かにこの小説は探偵である主人公ブルーの内的な試行錯誤自体が核となる。だからといって所謂心理小説に分類されるものでもないだろう。ジャッキー・ロビンソン、ロバート・ミッチャムと言った人名、橋や通りの地名により、作品の舞台は凡そ半世紀前のブルックリンに完全に特定される。しかし、主人公ブルーが仕事として監視するブラックやその仕事の依頼主であるホワイトの心理に入り込んで行く際、読者も同時にブルーの、そしてその鏡像と化した自身の心理を辿らざるを得ない。非常に現代的な小説である。

 そして、その作品構造を支えるのが、作者が積み上げた散文世界に他ならない。作品の終末になって初めて起こる事件らしい事件も、作品構造が必然として迎えた行き止まり、帰着点そのものでしかない。


 あとこの本について付記するとすれば、翻訳の素晴らしさだろう。といっても当然僕は原書を読んではいない。それでも翻訳が素晴らしいと断言できるのは、解説を書いている伊井直行や三浦雅士がそう書いているからではなく、感覚的にそう感じるとしかいいようがない。

 僕は米文学に精通しているとはとても言い難いが、翻訳の善し悪しは実地的に解るようになった。訳者書くところの「エレガントな前衛」たるオースターの文体を理解し、歯切れ良く、そして適切に日本語に翻訳しているのが僕にも伝わり、また前述の通り「幽霊たち」が文体そのものの力に依る作品であるから、作品から受ける感動も増すように思える。


 さて、冒頭でオースター関連の映画について触れたがそれにもちゃんと訳があり、「幽霊たち」の極めて散文的な散文(なんじゃそりゃ)を前にして、オースターという作家がすんなり映画に結びつかない、という疑問を感じるのだ。「幽霊たち」にも映画に関する記述はあり、その独特の筆致(いささかノスタルジーに流れているが)は魅力的である。でもやはり疑問だ。

 悩むことはない。これから彼の他の作品を読み解いていけばよいのだ。「ムーン・パレス」は購入済みだし、「鍵のかかった部屋」も注文を入れた。僕が上に書いたことが全くのハズレかもしれない。オースターが両方の分野にまたがる才能を持った人なのかもしれない。「ルル・オン・ザ・ブリッジ」がサブカル界のみで適度に消費されるだけでは嫌なのだ。そして何より出会えたことを感謝したい作家の小説を僕は久しぶりに読めたのだ。それだから僕はこれを書いたというわけである。


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初出公開: 1999年01月19日、 最終更新日: 2000年01月09日
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