正しいロック周辺産業(ライナー編)


 渋谷陽一の「ロック大経典」(ロッキング・オン)の中に、氏がレッド・ツェッペリンのライナーのことで落胆した話が出てくる。Zep の日本盤ライナーの多くは渋谷陽一が手掛けていたが、それがあっさり他の人間のものと差し替えられ、「ツェッペリンといえば俺だろ」という自負、自分の文章が幾らかCDの商品性に寄与してるという矜持があっさり打ち砕かれてしまったのである。渋谷陽一の記述は正直で嫌みでなく微笑ましいくらいだが、洋楽ディスクにおけるライナー・解説文というのは現在でも意味があるのだろうか。

 洋楽ディスクに付けられる解説というのは必ずしも日本特有のものではなく、評論家による文章が原盤(特にベスト盤やボックスセットなどに)に付けられることがあるし、ミュージシャン自身による曲目解説というのも以前はちょくちょく存在した(例えば、トッド・ラングレンの「サムシング/エニシング?」)。ただここでいうライナーというのは、日本の音楽評論家、ライター、DJ、ミュージシャン、渡辺満里奈が書く文章のことを指す。


 基本的に解説が最も必要とされるのは、ミュージシャン・バンドの知名度が低い場合のリスナーに対する情報提供だと思う。デビューしたての段階では極東の島国での情報が欠如しているのは当たり前。そこでバンドの音楽性を分かりやすく通訳できたライナーは、確かにディスクの商品性に寄与することが出来るかもしれない。その好例として、ストーン・ローゼズのファーストにおける増井修(当時 rockin' on の編集長)の解説文が挙げられるだろう。閉塞しきっていたイギリスのシーンに何故あんなアンチ・ショービズの、しかも唄の下手糞な(でも俺は好きだぞ)ボーカルを擁したバンドが風穴をあけ、十年以上経った現在においてなお影響を与え続けるのか、ライナーを読めば予見可能である。

 しかし、同じ増井修のライナーでも、オアシスの「モーニング・グローリー」などは慢心しきった文章で、悪い例の見本だろう。rockin' on にも「業界ズレした増井修のマンコ野郎」という投書が掲載されたことがあった。

 ある程度評価の定まったバンドになると大抵の場合、「俺がこのバンドの日本におけるスポークスマンだ」と勘違いするライターが現れ、ライナーの執筆を独占するようになる。そこで書き手に上に書いたような慢心が生じると、優れた音楽にライナーという襤褸(ぼろ)が被せられることになりかねない。トーキング・ヘッズのライナーが今野雄二だったときの落胆を僕は忘れないだろう。


 今野雄二はさておくとして、筆者が購入するようなバンドの日本盤ライナーは最近ではロッキング・オンの人間が書くことが多く、以前のような馬鹿丸出しの文章を見る機会も減り、精神衛生上よろしいのだが、シビアに見ると、それでも解説文のクオリティーは高いとは言えず、rockin' on 誌においても、ディスクレビューの質は年々下がっている。ブラーの「グレート・エスケイプ」もオアシスの「ビィ・ヒア・ナウ」も絶賛ばかりだったっけ。前者に対する「音に前作のような伸びやかさがない」、後者に対する「良い曲も多いが全体に冗漫」といった評価すら下せずに、一年経って本国の音楽誌の評価に追従している。音そのものより雰囲気読みを優先しているのだろう。ましてやライナーにおいては鋭い批評など望むべくもない。

 以前からそうだったではないか、という指摘する向きもあるだろうが、冒頭に挙げた「ロック大経典」なんか読むと、当時根強い人気を誇ったエマーソン・レイク&パーマーの「ワークス」を、渋谷陽一は「この作品の持つ古さが痛ましい」とライナーにはっきり書いている(また同時にジューダス・プリーストやスコーピオンズのライナーも書いてるのを発見し、笑ってしまうのだが)。ツェッペリンにしてもプリンスにしても、渋谷陽一のライナーはなんだかんだ言って、それなりの質を示している。


 先ほど「通訳」という言葉を用いたが、音そのもので本来なら十分なものに解説が付くのは、確かにリスナーに対する一種の通訳作業なわけで、音楽産業が日本においてもそれなりに成熟(洋楽産業は好況ではないが)した現在において、そうしたものも不要になるのが自然の流れだろう。時間もスタイルも厳しく制約された状況で良質な解説を行うのが元から厳しいことは容易に察せられる。これからはレコード会社もラジオなどのメディアにおけるプロモーションを戦略的の行う方が得だと思う。そっちの方が本来的なあり方だろうし。

 それに、現在でも付加価値の付け方を明らかに勘違いしたものが散見される。最も分かりやすい例として、最近のストーンズのアルバム(つまり90年代ヴァージン移籍後)に付けられた山川健一の短編小説や大塚寧々の旦那の詩が挙げられるだろう。はっきりいってうっとおしい。70年代初期ピンク・フロイドの日本盤に「ぽえむ」を付けて神秘性・文学性を付加しようとした時代とは違うのに。特に「ヴードゥー・ラウンジ」に付けられた山川健一の、酔っ払い運転だの破産だの腹上発射だののイカレポンチ路線の小説もどきは最低。山川健一や鳥井賀句は、自分達の作文が日本におけるストーンズの商品性を下げていることにいい加減気付いた方がいい。


 山川健一はさておくとして、もう一つ筆者が胃液が沸騰するほど腹が立ったディスクを紹介しておく。それは90年代に入って発表されたオーティス・レディングのベスト盤における、SOUL ON誌の桜井ユタカとやらの文章である。前半の彼のオーティスに対する思い入れたっぷりの感想文に苛立ち(こいつが真夜中オーティスを聞いて泣いていようがどうでもいいことだ)、後半の収録曲の勝手な採点に冊子を破り捨てたくなる。こっちの領域はロックよりも深刻だな、と痛感させられた。

 何も「恐れ多くもオーティスの曲に点数を付けるとは何事だ」などと言いたいわけではない。代表曲の既発表テイクのみからなるベスト盤をどういう層が買うのか考えて欲しいのだ。同じく90年代になって発表された優れたオーティスの未発表曲集「リメンバー・ミー」とは明らかに異なるだろう。コアなソウルファンは道楽者を除けば買わず、恐らくは僕のようにロック経由でソウルミュージックに興味を持った人間などブラックミュージック初中級者が殆どではないか。

 そうした層が求めるのは、何よりオーティス・レディングという希代のソウルシンガーの時代的位置づけ、彼のアーティストとしての概略だろう。桜井ユタカはデビュー曲「ジーズ・アームス・オブ・マイン」に98点という最高点を付けている。確かに名曲だ。しかし、オーティスがこの曲の田舎っぽさに留まり続けたなら(多くの南部ソウルはそうだった)、現在の評価を得ていただろうか。そんなことはない筈だ。ビートルズのサージェントペパーズをレコード盤が擦り切れるほど聞き込んだ、など彼がR&Bの枠を超えようとしていたことは有名で、そうでなければストーンズの「サティスファクション」を洗練されたアレンジで料理できはしなかっただろう。それが80点かね、桜井クン。情緒的な自慰感想文なら自分のメディアでやりたまえ。

 冊子を破り捨てる前に原盤のブックレットを見てみる。こちらは Kevin Phinney による標準的なバイオグラフィーで、各曲のチャート最高位(しかもR&Bチャートと総合チャートを両方)も記載されている。何だこれを和訳してそのまま載せた方が100倍いいじゃないか!


 さて、余り文句ばかり書いていると健康に悪いので、良質なライナーを書く人は誰か、と考えてみる・・・が余り思い付かない。外盤を買う方が多くなってしまったためだが、強いてあげれば中川五郎や大鷹俊一あたりに落ち着くだろうか。特に中川五郎氏の場合、歌詞の和訳も非常にうまい(ブコウスキーの翻訳もやる元ミュージシャンという経歴を考えれば当然だが)。

 この次は、日本盤の最大の付加価値であろう、訳詞について書こうと思う。


[後記]:
 本文で、中川五郎さんのことを「元ミュージシャン」と表記しているがこれは間違いで、中川さんは現役のミュージシャンである。この記述が中川さんの周辺で爆笑と波紋を呼んだらしい(笑)。この場を借りて中川さんにお詫びして、訂正します。

 その他、大塚寧々の旦那は既に旦那ではないのを鑑みても、時の流れははやいものだ。なお、本文の最後に予告した文章だが……まあ、いつか書けるでしょう。

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初出公開: 1999年03月26日、 最終更新日: 2001年08月17日
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