どうでもよいことにこだわってしまう


 めんどくさい

 僕のサイト運営の原動力はこの一言に尽きる。もちろんそれは「楽をするためならどんな手間も厭わない」というハッカー的逆説思考の話ではない。何か新しいことをやろうとしたときにブレーキをかける力のことである。つまり何もしないことを選ぶ方向に働く力なのだから、それのどこが原動力だと言われそうだが、必ずしも悪いことばかりではない。

 自分の活動範囲をあまり広げすぎないというのも重要なことである。風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなり、それが他の人の作業に遅延をもたらし要らぬ軋轢を起こしている場面をたまに目にしたりするとそれを痛感する。風呂敷を大きく広げることを活力にできる人もいるが稀であるし、いずれにしろ他人の事情など誰も分かってはくれないのだ。

 ただ僕の場合、自分一人の作業で片がつく程度の話であってもすぐにめんどくさくなって結局手付かずになることが多い。やはり当方のめんどくさがり屋という性分が総体としてプラスに働いているとは思えない。


 ウェブページを開設して三年半になるが(うげっ!)、その間にはときどきいろいろ思い立ったりもした。トップページのデザインを一新しよう、新しいコーナーを作ろう、メーリングリストを設けよう、ReadMe! に参戦して愛・蔵太さんにけなされてみよう…といろいろあったのだが、結局どれもやらずじまいに終わっている。

 何か行動を起こすのは衝動的にやってしまったか、もしくは何かしらの「外圧」がタイミング良くかかった場合がほとんどで、そうでないときに上に挙げる程度のことでも、それにともなう雑事を考えるうちに疲れてきて「めんどくせー」の一言が頭に浮かんでやーめた、となってしまう。

 そしてそうしたものの中でも定期的に考え、頭を悩ませ、そして面倒になって決定を先送りさせてきたのが Amazon アソシエイト・プログラムの導入とプロバイダ移転、並びに独自ドメイン取得の問題だったりする。

 これらについて一体何をどう悩むのだと読者の方は思われるだろうし、それはまったくその通りなのだが、いったんこだわりを感じるとなかなかそこから先に進めなくなるという当方のもう一つの陰徳が大きく作用していたようだ。


 Amazon アソシエイト・プログラムとは、ウェブサイト作者が書籍やCDを紹介する場合に Amazon の該当するページにリンクをはり、そしてそのリンクを経由して当該商品を閲覧者が購入した場合には、紹介料が元のウェブサイト作者に与えられる…といった説明を書く必要もないかな。それぐらい普及したシステムである。

 Amazon からしてみれば自分のところにお客を呼び寄せることができ、ウェブサイト作者からしてみれば商品について詳しい情報が載っているページにリンクをはることができ、しかも紹介料も入る(かもしれない)という両者にメリットのあるシステムである。

 便利だと分かっているのにどうしてこだわり、ためらったのか。理由はいくつかあった。

  1. リンクを多数はるとサイトの総バイト数が増えてしまう
  2. Amazon という企業に対するわだかまり
  3. 紹介料を得ること自体に対するわだかまり

 うーん…これだけじゃまず分かってもらえないだろうな。もう少し詳しく書こう。

 1に関する事情は後述するが、結果的にはこの考えは間違っていた。Amazon アソシエイトを利用すれば書籍やCDの画像にリンクすることができるので、逆にファイルサイズの大きい画像を自分のところから一掃できる。これは意外な効用である。


 2については、もちろん Amazon に対して恨みがあるというのではない。紀伊国屋 BookWeb のサービスの悪さに苛立ち、期待していた bk1 がどうも煮え切らないところに登場した Amazon.co.jp は真打というべきサービスを提供しているように思う。実際にはいろいろ問題もあるようだが、少なくとも僕個人は Amazon で買い物をして嫌な思いをした経験はない。やはり1500円以上で配送料タダというのはでかい。

 余談であるが、一方の bk1 の低迷は何なのだろうね。Amazon.co.jp よりも先に立ち上げた時の利を十分に活かしきれず、森山和道という人徳のあるスタッフはとっくに去っており、先日アクセスしてみたらあそこの最大の売りである豪華執筆陣によるコラムへのリンクがトップページから消えていた…

 それなら Amazon の何にわだかまるのかというと、かつて Boycott Amazon! を訳したこともある人間が Amazon アソシエイトもないだろうというのがあったのだ(現在 GNU のサイトにある日本語訳はワタシによるものではありません)。

 僕は GNU 信者ではないし、何より自分が訳したものに活動を縛られるのもバカらしい話なのだが、安易に Amazon のシステムに乗っかるのに抵抗を感じたのだ……と書いていると、なにかワタシという人間がいかに世渡り下手かということを解説しているような気分になってきて悲しいのだが、その通りなのかもしれない。


 そして問題の3についてもうまく説明できない。ウェブページを介して収入を得ることを否定するつもりはない。大威張りでコンテンツを有料にしようが、広告バナーを何枚はろうが、それはサイト作成者の勝手である。

 ただバナー広告に関しては、基本的に自分のサイトにつけることはないだろう(義理が絡んだ場合は例外かも)。これはダイヤルアップ接続時代にバナー広告やポップアップ広告(これは今もか)に対して感じた憎悪に近い感情が根を張っているのだろう。時代遅れだろうが、僕は今でもダイヤルアップ接続ユーザでも問題なく閲覧できるページ作りを重視している。第一自分が絶対クリックしないものを、ページの表示時間を遅らせてまでサイト閲覧者に勧めてどうするよ、無料ホスティングの交換条件とかいうならともかく。

 どうやら Amazon アソシエイトで得られる紹介料を自分のコンテンツに対する対価と考えてしまったのがこだわりの原因のようだ。対価がほしいなら、そんな迂回した手段など利用しなくても堂々と取ればよいのだ。しかし、僕自身はうちのコンテンツから金を得たい気持ちはあまりなくて…(以下堂々巡り)。

 例えば結城浩さんのように Amazon アソシエイトから得られた紹介料と同額のお金をユニセフに寄付するというのは、結果的に一つの回避策になるのだが、正直なところこのやり方は僕には理解できないので、参考にならない。


 結果的に気持ちの整理(大げさな…)がついたのは、うちのような場末の弱小サイトを経由して Amazon で買い物をする人などごくわずかで、こちらが意識しようがしまいが紹介料など微小なものにしかならないという至極当たり前の事実に辿りついたからだ。となれば、僕としては Amazon アソシエイトというシステムの利点に着目するだけで十分である。

 そしてそれをちゃんと認識していれば、プログラムにのっかることで自分の書評、ディスク評の公平性が歪むことはないし、はじめから自分が薦めるものにしかリンクをはらなければ良心との折り合いもつく。

 さきほど自分のサイトのコンテンツから金を得たいとは思わないと書いたが、ウェブ上のコンテンツはすべて無料であるべし主義(何じゃそりゃ)にとらわれているわけでないことも書いている。これは結構、微妙な気分の問題だったりするのかもしれない。

 ウェブコンテンツに対するマイクロペイメントというのは、ずっと懸案であったテーマと言える。つまりはずっと懸案のまま解決できていない問題とも言えるわけで、Jakob Nielsen 博士は1998年1999年の二度にわたってマイクロペイメントを擁護したものの、結局彼が予測したようには普及しなかった。そこらへんの問題については Clay Shirky による「マイクロペイメントへの反論」に詳しいが、この文章の冒頭でも述べられているように、P2P 技術が重要性を増していくことを考えるとマイクロペイメントが普及しないのはちょっと困ったことでもある。


 日本においてマイクロペイメントを推進する運動としては、投げ銭システムが最も有名だが、成功しているとは言えない。この文章を書いている時点で、そのトップページに「現在は投げ銭出来ません」と明記しているぐらいだもの。

 投げ銭システムに対する批評として、山形浩生による「投げ銭と青空文庫と:電子テキストについて考える」がある。これは以前にも少し書いたことがあるのだが、この文章における松本功によるフリーソフトウェア批判への反論、フリーソフトウェアと青空文庫の関連性の分析はともかく、投げ銭システムに対する批判の部分には少しおかしなところがある。少なくとも松本功は既存の集金システムに対するオルタナティブを目指していた(いる?)のだから、郵便振替でいいだろうというのははなから違うはずだし、「価値があると思うやつは5000円振り込め」というのができないのが「loser文章」と断じるのも議論上粗雑過ぎる。人の実際的な金銭感覚なんて結構いいかげんだし、時期性にかなり影響されるはずだ。例として挙げている布施英利のメールマガジンなんてその好例だろうに。

 ただ山形浩生が「さもしい」という言葉で表現している、金銭を要求することに対する心理的なハードルは確かにある。僕自身がそうしたシステムを利用しないのは、単に金銭を目的・想定して文章を書いていない、ただそれだけなのだが、この「心理的なハードル」は無視できない。


 ただ状況もこれから大きく変わるかもしれない。ろじっくぱらだいすにおいて公開された「Web投げ銭について考えてみた」が契機となってこの問題が議論されているからだ…などと書きながら僕はいわゆるテキストサイト界に興味がなく、ろじぱらを含む有名どころすらほとんど巡回していないのでその議論の詳細を知らないのだが、いずれにしろ有名サイトが取り上げただけでこれまで沈滞していたものが一気に活気付くというのも皮肉であり一面愉快でもある。

 現状 eBANK でおひねりというのがベストであるようだが、確かにこれで日本版 PAYPAL が実現し、ユーザがはじめから「そういうものだ」と思えるところまで持っていければ、ユーザのマイクロペイメントに対する心理的抵抗も変わるかもしれない。

 ただ上にリンクした文章にしても、トラブルが起きないためのユーザ側、サイト作成者側それぞれの気構えについてわざわざスペースを割いて書かざるを得なかったわけで、そうした十分な前説が必要な時点で既に難しいのではとも思う。このままでは、口座を持つのはウェブサイト作成者だけになり、投げ銭という仕組みが彼ら(テキストサイト界?)の馴れ合いと政治の道具にちまちま利用されるだけに終わりかねない。すぐにウェブサイトの面白さの指標化といった方向に話が進むのもそういった匂いを濃厚に感じるし。


 「マイクロペイメントへの反論」で指摘されているユーザの嗜好性との齟齬を埋め合わせるのは、ウェブサイト作成者の熱意……は当然必要なのだろうし、何かしらの準備は当然いるのだけど、それが一番の実行力になるとは僕は思わない。むしろネットバンキングの世界で多数のユーザを抱える勝ち組が先に決まり、そこのサービスの一つとしてマイクロペイメントでも利用してみっかとユーザが思うのが順当なストーリーではなかろうか。

 そうした意味でますますレッシグの「CODE」的というか、彼が挙げた社会統制の四つのやり方のうち市場(商業)によるネットの統制が強まっていくのだなあ、と小学生のような感慨にふける夏休み最終日でした。

 …と、図らずもマイクロペイメントについて長々と書いてしまった。本当は Amazon アソシエイト・プログラムを利用して当サイトで(好意的に)扱う書籍やディスクにリンクしますという話に加え、プロバイダ移転や独自ドメイン取得の話を書くつもりだったのに、もうここまでで結構な長さになってしまった。もう読者は忘れていると思うが、「後述する」と書いた問題も残っている。しかし今回の文章はここまでとさせてもらい、残りはまた別の文章として書きおこすことにする。

 しかし、読者の皆さんは気付かれているだろう。正直これ以上先を書くのがめんどくさくなっただけであり………


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初出公開: 2002年08月19日、 最終更新日: 2002年11月28日
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