ことの終わり


 僕が巨人ファンだったのは、思えばごく自然なことであった。

 まず何より父親が熱狂的な巨人ファンだった。母親が父親のところに嫁入りしたとき、ある男性の写真が額におさめられ、飾られているのに気付いた。母親はてっきり夫の父君の写真だと思ったそうだが、それは当時巨人軍の監督だった水原茂の写真だった…という話を母親から聞かされたものである。当時クソガキだったワタシはその話を愉快に感じたものだったが、今こうして文章にすると結構怖いぞ。

 それはともかく、銭形のとっつぁんと同じく昭和一ケタ生まれの頑固父親が筋金入りのファンだった上に、僕が育った田舎(長崎)ではテレビでやってる野球中継といえば、まず巨人戦といってよい。巨人=プロ野球という刷り込みがなされるのも無理はなかった。

 近頃はちゃんとテレビの野球中継を見ることもないので、今も言っているのか知らないが、「一部の地域を除いて野球中継を延長します」という決まり文句を聞くたびに、父親と二人で恨めしい思いをしたものだ。だって長崎はその「一部の地域」に必ず入ってたもの。当時民放が2チャンネルしかなかったのだから仕方ない。まあ、そのおかげで「笑っていいとも」が平日の学校帰りに見ることができたという利点もあったわけだが、「夕焼けニャンニャン」は見ることはできなかったわけで…という話はまたの機会にしよう。


 今と違い、当時のガキどもの間で人気のあるスポーツは何より野球だった。僕も野球少年として成長し、実際に野球を部活などでやらなくなった後も、学究的な性格(良く言えばね)のおかげで、日本のプロ野球に関する本をいろいろと読むようになった。で、そうした書籍を読んで得た結論は、「巨人という球団はまったくどうしようねー」というものだった。昔から巨人はロクでもない球団だったのだよ。

 しかし、それでも自分が巨人ファンである、という認識は変わることがなかった。僕が野球少年の頃、一番好きだった巨人の選手は、篠塚内野手だった。彼の名人芸といえる流し打ちが、同じく左打ちで非力だった当時のワタシの理想だったわけだが、彼が引退した後、好きな選手が挙げられないような状況になっても、やはりその認識は変わらなかった。大学に通うため大阪(つまり阪神タイガース文化圏)に四年間住んでも、その認識は揺るがなかった。大阪でなくても、巨人ファンとともに、アンチ巨人を表明する人も多い。彼らからいろいろ言われ、またその指摘が正しくとも、自分でも不思議なのだが、変わらなかったのだ。

 自分は一生巨人ファンとして生きるのだろうなぁ、とぼんやり思ったものだ。


 しかし、である。一昨年あたりからだろうか。自分が巨人ファンであることがだんだん恥ずかしいことに思えてきた。

 前述の通り、僕の認識は、外からの働きかけでは変わることはなかった。そうでなく、自分の内面で変化が起こったようだ。そして昨年の日本シリーズで巨人が優勝したのを見て、その恥ずかしさが溢れてしまい、自分が既に巨人ファンでなくなっていることに気付いた。これには自分自身ひどく驚かされたが、実際のところ野球自体に強い興味がなくなったようなのだ。パ・リーグに関しては、自分が現在住んでいる場所の関係でダイエーを心持ち応援しているが、セ・リーグはもうどうでもよいのだ。スポーツニュースも見なくなった。つまり、愛情の裏返しの巨人憎しではない、ということだ。

 予めお断りしておきたいのだが、僕の「恥ずかしい」という感情は、極めてパーソナルなものであり、他の巨人ファンについてどうこう言うつもりはまったくない。

 ただそこに至る思考プロセスは、近年よく言われる「巨人が野球をつまらなくした」的意見と重なるところが間違いなく多い(その一つのサンプルとして、宮崎学氏の「巨人優勝の世紀末」を挙げておく)。しかし、そこらへんのことは既にいろんな人が書いていることであるし、特に僕から駄目押しすることもない。


 僕は巨人ファンとして「終わった」わけだが、僕の場合、実はスポーツに関して、この「終わった」という感覚に至ったことが過去何度かある(だから、今回も気分的には落ち着いている)。

 例えば、相撲。こっちはいつのまにか自分が巨人ファンでなくなっていたのと異なり、自分の中で「終わった」日がはっきりしている。それは、1991年5月15日である。そう、28度の幕内優勝、前人未到の通算965勝を成し遂げた横綱千代の富士(現九重親方)が引退した日である。

 千代の富士は素晴らしかった。小兵力士に分類される体格を、見事な技の切れと勝負の鬼といえる闘魂で見事に補っていた。僕は、巨人の篠塚の場合と同様、非力だった自分の理想の姿を彼に重ね合わせていたのかもしれない。

 全盛期の強さも忘れがたいが、個人的には晩年の戦いぶりも好きだった。その頃になると、結構自分を客観視したコメントが多くなり、取り組み後の淡々とした調子の良い喋りが、同じく弁(ばかり)が立った当方には好ましく思えたのだろう。

 しかし、確かに彼の横綱としての終わりが近づいていることがはっきり伝わるようになると、恐怖を覚えた。彼の引退とともに、自分の中で相撲が魅力ないものになるのでは、と恐れた。そして、その通りになった。

 なので、その後の若貴ブームから現在に至る二子山勢の隆盛と凋落を、僕はひどく醒めた目で見ていた。というか、凋落の方については、「ざまあみろ」と思っている。誰だよ、あいつらを「理想の家族」とかもてはやしたバカは。


 そして、同様の感覚を経験したものに、プロレスがある。プロレスをスポーツと呼んでよいかはともかくとして、これに関しては凡そ15年前に自分の中で「終わって」いる。

 といっても、こちらは相撲の場合とは異なり何か特別な契機があったわけではなく、いくつかの外的要因が重なってなんとなくそうなってしまったのだが、これは僕にとって本当に幸運だったと思っている。猪木イズムが最後の輝きを持っていた時代を自分の中でフリーズドライすることができたからだ。

 僕の周りには格闘技にのめり込んでいる友人が多く、彼ら(の多く)は猪木イズムの洗礼を受け、そのままその世界をずーっと追いかけているわけだが、K1がどうした、小川の次の対戦相手がどうした、とか熱く語っている彼らと話を一応合わせることができ、なおかつ一定の距離を保てるのも精神衛生上良いものだと思っている。

 何しろワタシの場合、「強いプロレスラーを上から三人挙げろ」という質問に対する答えが、この15年間「猪木、長州、佐山」で変わらないのだ。というか、一生こう答え続けようと思っているくらいだ(笑)。


 だから、佐山聡に関しては、シューティング創始以降のイデオロギー闘争(というのかね)にはあまり興味はなく、飽くまで「初代タイガーマスク」なのである、僕にとっては。

 で、その彼が今度の参議院選挙に自由連合から立候補するというニュースは、当方が勝手に抱いている美しい記憶を粉砕して腰砕けにするに十分なものだった。「自由連合スポーツ文化部次長」ねぇ…

 勿論誰が立候補しようが、他人である僕がどうこう言える筋合いはない。こちとら有権者として、投票で意思表示もできるのだし。

 かつての美しい記憶と、今度の投票はさすがに相容れない。ワタシにもそれぐらいの判断力はある。今回の選挙は、本来ならタレント候補に構っている暇などない筈なのだが、どこの党もタレント候補ばかり…いい加減うんざりするが、今の制度上とにかく候補者なり政党なりを選ばなければ仕方がない。

 皆さんも29日は選挙に行きましょうね、ということでオチにさせてください。


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初出公開: 2001年07月24日、 最終更新日: 2002年08月19日
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