石、流れる


 五年ほど前の話だ。

 電車がなくなる時間まで遊び呆け、さて帰ろうかということになり、友人二人とタクシーを拾った。車内でもいろいろだべっていたのだが、会話の流れで僕が「さすがだねぇ〜」と呟いたとき、それまで黙って車を走らせていた、我々とさほど年の違わないように見えた運転手が、すっと一言口を挟んだ。

 「流れる石ですね」

 へ? ながれるいし? 何それ…

 「いや、だから流れる石と書いて流石(さすが)…」

 我々は皆、意表を突いた運ちゃんの発言にツボを突かれ、誰ともなくフフフ…となり、そのうち運ちゃんも含めて皆ゲラゲラと大声で笑い合った。今思い出すとだからどうしたという発言であるが、深夜まで遊び疲れていたが、同時にかなりハイだったのだろう。つまり今より五歳若かったということだ。

 そのときの友達とは未だに「流れる石」の一言で微笑み合ったりするのだが、どうして石が流れたら「さすが」になるのかはお互い分からずにいる。もちろんそんなもん分からなくても生きる上で全然支障はないのだが、日常使っている言葉も、よくよく考えてみると何だかよく分からなくなるものが多い。だから言葉は面白いわけだが。


 身近な言葉なのによく考えると分からん、という例として僕が長年主張しているのが、豆腐と納豆だ。つまり、それぞれ「豆を納める」「豆を腐らす」ということだが、乳を凝固させ四角にめたものが「豆腐」、大らせた(発酵させた)のが「納豆」では逆ではないか。少なくとも「豆腐」の方は、製法的に言えば「固豆」みたいなものになるべきだろう…と主張したところで誰も賛同してくれないところが悲しいのだが、偏執的なまでの潔癖症だった泉鏡花は、「腐」という字を書くのを厭い、豆腐を「豆府」と書いたことは有名だが、「固豆」だったらそんな苦労もせずに済んだのだ。もちろんどっちだろうが日本文学史にはまったく影響のないことであるが。

 もう一つ僕がネタにする言葉があって、それは「人一倍」である。これは「人一倍勉強し、試験で良い点を取る」といった使い方をするが、そもそも「人一倍」なら、人×1=人となり、「人並み」という意味になるじゃないの。

 実はこっちに関しては僕は答えを知っていて、元々は「人一倍以上に」とか言っていたのが短縮された結果らしい。これは今から十年以上前に「笑っていいとも」のあるコーナーにレギュラー出演(!)していた金田一春彦が言っていたのだが、ここまで話しても誰も感心してはくれない。つくづくワタシという人間は、どうでもいい知識しか貯めこんでないらしい。


 まあ、そこまで言葉を難詰するのも野暮な話で、言葉は単純にもっと面白いもののはずだ。言葉で遊んでみればよい。「言葉遊び」の範疇に入るものはいろいろあるのだろうが、手元の広辞苑第四版を「言葉遊び」で引いてみると、

言葉の発音・リズム・意味などを利用した遊び。なぞなぞ・尻取り・しゃれ・語呂あわせ・アナグラム・早口言葉など。

 とあったので、天邪鬼であるワタシはそれ以外を例に出すことにしよう。

 回文なんてどうだろう。そう、上から読んでも下から読んでも、というアレだ。

 僕の脳内メモリに蓄積された回文を挙げていくと、「宇津井健氏は神経痛」「わたし負けましたわ」「サッカー、勝つさ」「ふとんがふっとんだ」…だんだん例がしょぼくなっていくのが情けないし、最後のはただの駄洒落じゃないか!

 回文を持ち出したのは、実は随分前にネットで見かけた「ひなげしの沢山咲く地区散策楽しげな日」という回文を紹介したかったからなのだ。最近物忘れがひどくて、書き残しておかないと忘れそうで恐いのだ。上の回文だけ書いておいても、それが回文であることすら忘れそうで……嗚呼、アルツハイマーに花束を。


 さて、アルツハイマーはともかく、上の回文を考え付いた人間はすごいヤツなのではないだろうか。ここまでくると遊びのレベルを越え、よくできた一筆書きのような一個の「作品」としての風格すら感じるのだが、もっと気楽に楽しめる言葉遊びを紹介しておこう。

 それは「二つの節からなる言葉の、それぞれの最初の一文字を入れ替える」というもので、これだけではなんじゃらほいと言われること確実だが、「水砂利怪魚」「苗字の最初の文字と名前の最初の文字を入れ替えてみました」といった実例となるウェブサイトがあるのでそちらを参照していただきたい。

 僕がこの遊びに注目するようになったのは、rockin' on で松井力也さんがこれについて書いた文章を読んだのがきっかけだが、後に『「英文法」を疑う』(講談社現代新書)という好著を書くことになる松井さんは、「ムーミン」の中でこれをやっていたキャラクターの名前をとり、「ビンスとトフス遊び」と名づけていた(注釈:結城浩さんから、「ビフスランとトフスラン」ではないかという指摘をいただきました。今度帰省したら、RO のバックナンバーをちゃんと調べてみます。あとこれも結城さんから教えていただいたのだが、この遊びは英語では spoonerism というそうだ。ありがとうございました!)。

 この遊びは内田百けん(門がまえに月)も作中でやっていたというくらいだから、実はその歴史は古いのだが、これを一躍強力な笑いの手段として認知させたのが、かのスネークマンショーで…と書いて不安になったのだが、僕は音楽の原体験がクイーンとYMOだった関係で「スネークマンショー」もぎりぎり分かるのだが、30台以上でないと知らないかしらん。「かんたまきゆいんです」とかやっていたんだよ、と書いて分かってもらえるだろうか(分かるか!)。


 「スネークマンショー」絡みの話は今月の KEEPERS 原稿でも触れる予定なのでこの辺にしておいて話を戻すと、この遊びをやるのに最もてっとりばやいのは、姓と名の二つにきっちり分かれる人名に適用することで、上に紹介した二つのサイトともそれをやっているが(そして、けつだいらまん、もとい松平健をその好例に挙げているのも同じ。よかったね暴れん坊将軍)、松井さんによると、これに熟達すると移動中の車中に二人並んでいて、片方が看板を指差し「ほら、あれ」と示すと片方も理解し微笑み合うようになるそうだ。そして、その姿は周りの人間を妙にむかつかせるらしい(笑)。

 周囲の蔑視にも耐え道を極めた松井さんが見つけた極意は、「パチンコ屋にハズレなし!」というもので、例として挙げてくれた「パチンコ・オメガ」がかなりインパクトが強かったため、その文章を読んで以来、パチンコ屋を見るたびにこれをやるようになってしまった。そして「パチンコ・パープル」という名前を見て凶暴な気分になり、「まったくこの店名前がなってねえぜ」などと吐き捨てたりするのだから、まったく松井さんも悪い遊びを教えてくれたものだ。


 いいがかりはともかく、このように一人ででも言葉だけでいろいろ遊ぶことができるわけだ。おまけに今ではインターネットのおかげで、自宅にいながら、簡単にいろんなことを見たり調べたり組み合わせたりすることができる。ま、これにはいろいろと弊害もあるわけだが、そこらへんのことは置いておく。

 ここまではすべて日本語に特化した言葉遊びを紹介してきたが、これに英語を絡めるとまた違った遊びが生まれる。そこでインターネットならではとなると、最近検索サイトでも利用可能な翻訳サービスで日本語のサイトを英語に変換し、それをまた日本語に直してみるという遊びがある。これが元の文章とかけ離れてしまってけっこう笑える。

 この遊びは翻訳エンジンの未熟さを笑いに転化したものだが、スタンリー・キューブリックが「フルメタル・ジャケット」について英語側から遊びでなくこれをやり、日本公開版の訳者を変えさせたという事件は、片方ではキューブリックの完璧主義を物語る伝説として、もう片方では戸田奈津子の字幕を嫌う人の格好のネタとしてよく取り上げられるが、僕もあの映画の字幕は戸田奈津子でない方が絶対よいとは思うけど、もとから無理・無茶なやり方だとは思う。

 例えば、この文章の中に何度も登場する「言葉遊び」という言葉、これを英語に直すと「ワード・プレイ」だ。それをまた日本語に直せば「言葉責め」になる。遊びがSMになっちまったやんけ!

 しかし、である。ここで深い命題に突き当たる。遊戯とSMの違いとは一体何なのだろう。両者は近いものなのか、遠いものなのか……かくして本文は、言葉というものが持つ底知れぬ闇、謎を残して終わるのである(嘘つけ!)。


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初出公開: 2001年06月11日、 最終更新日: 2001年06月13日
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