a little bit...


 先日ある雑誌を読んでいて、はっとしたことがあった。チェーホフの戯曲「三人姉妹」の中の台詞を引き合いに出していたところがあったのだ。

 これでお別れです.ヴェルシーニンは「またいつか,お目にかかれるかしら?」と問われて,「まあ,ないでしょう」と答えますが,私には,まだこれが本当のお別れとは思いたくない気持ちがあります.

 僕がこのくだりを読んではっとしたのは、文章の内容そのものとは実は関係がなく、筒井康隆『笑犬樓よりの眺望』で書いていた話を思い出したからだ。『笑犬樓よりの眺望』の単行本は実家にあるので正確な引用ができないのだが、次のような話である。

 筒井康隆が対談形式で講演をやったことがあった。その相手は小島信夫で、筒井康隆は小島信夫のことを以前から尊敬していたので、講演の後、別れ際に「またお会いしましょう」と声をかけた。すると小島信夫は、「いえ、それはないでしょう」と一言応えて去っていったそうだ。その言葉に、筒井康隆は「かっこいいなあ」と感想をもらしていている。


 チェーホフの「三人姉妹」は、「桜の園」と併録された新潮文庫を持っているにも関わらず、今まで気付かなかったのはまったく迂闊なのだが、小島信夫が「いえ、それはないでしょう」と言ったとき、彼の頭の中には「三人姉妹」におけるヴェルシーニンの台詞が頭をよぎったのではないだろうか。たとえそうでないとしても、その時の様子を記述する筒井康隆の方が、「三人姉妹」のことを想起したのではあるまいか。

 だからどうした、と思われるかもしれない。「三人姉妹」のことを知ったから何がどうなる? 小島信夫が、もしくは筒井康隆がそのことを意識したという証拠がどこにある? 例えお互いの頭の中にそれがあったからといって、読者の理解がどう変わるというのか?

 以上の予想できる反応に対し、僕はうまく言葉を継ぐことができず、口篭もってしまうのだが、やはりそれを読む側としては、背景を想像して読むことができるのとそうでないのとでは、理解の質に変わるところがあると思うのだ。

 表現として表に出るのは、実は思惟の全体からすれば、ごく一部に過ぎない。そして、表現者は彼らが生きる時代という準拠枠から逃れることはできない。つまり、その表現は過去という名の遺産、蓄積を意識しようとすまいと踏まえざるを得ないのだ。


 だから歴史、伝統は素晴らしいんです、などという鼻クソのような話をしたいのではない。僕が注目したいのは、我々が享受している表現、技術、思想の背後に流れ、それらをつなぎ合わせている水脈の方である。教養基盤という言葉を用いてもよいかもしれないが、それを単に固定的な体系としか認識できず、その各分野が論理的同型性により結び付けられたり、整理されたりする運動そのものを意識しなくなったら、その人は技術者としてお終いである。

 この文章を書き出し、筒井康隆の名前を出したところで思い出したのが、『筒井康隆の文芸時評』に引用されていた笙野頼子の発言である。例によってこの本も手元にないので正確ではないが、後になって残るのはその一部であるが、各時代の同ジャンルの表現はその実験性がアメーバのように微妙に影響を与え合っていて、極端に言えば、これについては書いても駄目、というのを確認するだけの実験作というのもあるはずである、といった内容だったと思う。これなどは歴史、伝統の方でなく、準拠枠としての時代性の中での水脈、接続性を言い表した言葉だと言える。


 さて、ここまで意図的に伏せていたのだが、冒頭に引用したのは、bit 誌2001年4月号の中の木村泉さんの文章である(113ページ、さなげ山通信(28)より)。

 ご存知のように bit 誌は、この2001年4月号をもって、限りなく廃刊に近い休刊を迎えた。これについてぼつぼつ感想が出ているが、嘆いてみせたり感慨に耽る人もいたりするが、主調音としては、「まーそんなもんだろねー」といったところであるように思う。休刊を話題にしているウェブ日記を読んでも、「最近では読んでないし」という一言が多いのだ。彼らは当然雑誌の想定読者の範疇に入っているわけで、そういう人達に読まれないのでは、休刊もやむをえないだろう。

 僕自身はどうかというと、大学で情報工学を専攻した人間として、bit の存在は欠かせないものだった…というのは嘘で、当時の僕はただの無知な落ちこぼれ学生に過ぎず、ろくに読んでませんでした。ちゃんと読むようになったのはここ数年で、それも単に職場で定期購読していたからである。bit 33年の歴史のごく一端しか知らないのだ。bit そのものよりも、bit 別冊号の形で出された「TCP/IP によるネットワーク構築」シリーズ(D. Comer 他著/村井 純・楠本博之訳)などの書籍の方がよほど馴染みがある。


 その程度の人間が云々するのもなんだが、bit にしても休刊がそれなりに話題になるのは、単に歴史があったからだけでなく、雑誌としての文化があったからだろう。それはコンピュータ・サイエンスの思想性の一つのあり方であり、そこには新興分野につきものの偏見を跳ね返す気概のようなものが多く含まれていたのではないか。

 一言でコンピュータ工学、情報工学といっても、その中では様々な研究があり、それらが影響を与え合いながら競い、そして同時に物理学、数学、生物学といった既存の学問にも(単なる従属でない)リンクを保ちつつ、独自の豊かさを持ち得ている、という主張である。その一種の衒気が一部の学生を惹きつけ、憧れすら抱かせたのだろう(「アレフ・ゼロ」の薀蓄、「悪魔の辞典」のジョークぐらいのことをさらりと言ってみたいと思った人は多いはずだ)。

 つまり、bit という雑誌が、お世辞にもスマートなスタイルとは言い難いが、知の「水脈」の重要性を理解し、紹介してくれたのだと思う。既存の学問との対等なつながり、そして20世紀末という時代に同じコンピュータ・サイエンスに携わる人間同士のつながりを。


 そして、その雑誌が21世紀に入りまもなく休刊することになったのは、その衒気自体があまり必要とされなくなったことも原因の一つにあるだろう。パソコンが普及し、IT 革命だなんだと喧伝されるようになり、一般レベルでも、研究者レベルでもコンピュータ・サイエンスは主流の一つとなったと書いて差し支えないだろう現実がある。

 またその普及とともに台頭してきたのが、一般レベルにおける表面的な実用史上主義であり、研究者レベルにおける成果重視主義である。これは bit のあり方と対立するものである。休刊号の「アレフ・ゼロ」において mzk 氏が書いている「bit が休刊の憂き目を見たのも教養軽視・実学重視の流れに乗り損なったせいだと思う」という感想には多くの人が同意するところだろう。

 しかし、それだけではないはずである。同じく休刊号の「アレフ・ゼロ」(つまり休刊号では全執筆者四人が勢ぞろいしてるのです)においてM生氏が書く「しかし,ここでどうしても糾弾したいことが1つある.それは,何を隠そう,bitの執筆者たちの驕りである」という主張を読むと、衒気とともにある種の矜持も失われてしまっていたらしいことが伺える。ただの査読プロセスのない論文もどきの宣伝誌に成り果ててしまっていたのだろうか。


 あと一つ思うのだが、インターネットの普及が、bit という雑誌のあり方にマイナスに働いたということはないだろうか。これは漠然と思うだけで確証は何もないのだが、これがお手軽な実用性重視の流れを推し進めている(かもしれない)という悪い部分とともに、乱暴に言えばインターネットにより bit 的雑誌が必要とされなくなったという良い(?)側面もあるのではないか。つまり、インターネット上で論文その他が検索できるようになり、この文章で書いてきた「水脈」の接続性を bit が担う必要性がなくなったという。

 インターネットで一段落、といいたいわけでは毛頭ない。ウェブにおいては、その接続性をまさしく「リンク」が為すわけであるが、もちろんそこにあるコンテンツが基盤となるに相応しい内実を持ってないといけない。

 日本におけるインターネット・ジャーナリストの第一人者である団藤保晴さんの「インターネットで読み解く!」が第100回を迎えた。その記念すべき100回目は「ネット・ジャーナリズム確立の時」というもので、団藤さんと同じようにインターネットを十全に活かした質の高いコンテンツを提供している田中宇さん、森山和道さんを取り上げていて(おっと、意図的に無視した人が一人)、bit 文化とは位相が異なるが、真にリンクするに足る水脈がちゃんと息づいていることを再確認できる。悪い意味で玉石混淆と言われがちなネットの世界だが、身近なところにちゃんと「玉」を見出せるのは素晴らしいことだ。


 最後に個人的なことを書かせてもらうと、僕が書いた文章にも、bit がきっかけになったものがある。最もはっきりした例が、うちのサイトの認知度をフリーソフトウェア関係に広げ(まだ全然ダメだけど)、自分の技術コラムのスタイルを確立した「フリーソフトウェアにおけるライセンスの意義」である。この文章については、Vine Linux 関係の記述ばかりが注目されてしまったが、元々は電脳雑技団による「計算の迷宮」(bit 休刊前に連載が終了した)がなければ書かれることはなかっただろう。この場を借りて、その回の著者である電脳陰陽師に感謝したいと思う。

 あと忘れてはならないのが、冒頭にも引用した木村泉さんによる「さなげ山通信」。僕が終末間際の bit をちゃんと読んでいたのはこの連載の存在が大きい(隔月連載だったけど)。僕が木村さんのことを知ったのは、『コンサルタントの秘密』などのG・M・ワインバーグの著作の優れた翻訳の仕事だが、この連載も僕が勝手に想像していた通りの木村さんの教育者としての類稀な説得力と、優れた文章力を味合わせていただいた。僕のようなボンクラにはいささか難しくてついていけなかったり、失礼にも退屈に感じられた回もあったりしたが、この連載は是非書籍化してほしいものである。それが末期 bit 文化を代表するものになるかどうかは別として、教育者サイドから呈示された過去の蓄積への優れた知のリンクの一例足り得るのは間違いない。


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初出公開: 2001年03月26日、 最終更新日: 2001年06月05日
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