yomoyomoの読書記録(2000年下半期)


筒井康隆「邪眼鳥」(新潮文庫)

 先日東浩紀のページをぼんやり眺めていると、「邪眼鳥」の文庫本解説についての記述があり、文庫に入っていたのかと慌てて本屋に買いに行った。すまんね、こちとら貧乏人なんで文庫本にならんと小説なんてなかなか買う気にならんのだよ。

 以前から読んでみたかったのだが、これは傑作である。筒井康隆の近年(断筆の時期があったから変則的にしか計れないが)書かれた中短編の中でも出色の出来だろう。作品自体を徐々に覆う「魔」の感覚、高度な技法に裏打ちされた作品構成、作者の年齢的な背景がうまくかみ合っている。最近、「噂の真相」の連載に首を傾げてしまうことが多いだけに、久方ぶりに筒井康隆を楽しむことができてよかった。

 死んだ父親と三人+一人(分かる?)の子ども達、父親と息子の両方に愛される美しい女性、という構成に僕は「カラマーゾフの兄弟」を想起したが、これは偶然だろう。父親の過去に子ども達の生命が、明晰さを失い曖昧な感覚(東浩紀はずばり「亡霊的」という表現を用いているが)の中に取り込まれていく感覚は、家族小説としての図式は似ているものの、技巧性はやはり筒井康隆ならではのものだ。

 ただ過去の「最後の喫煙者」と同じ趣向の場面が出てくるのはどうだろう。これは彼の実体験なのだろうか。同じ趣向でも「邪眼鳥」での描写の方が強烈痛快なのだが。

 あと併録された「RPG試案――夫婦遍歴」であるが、僕にとって、筒井作品には「すこぶる愉快であるがよく分からん」と区分される作品群があるのだが、これもその中に入るようだ。


佐中南風「A型の人の心のいやし方」(三心堂出版社)

 僕ももういい年なので、占いやら血液型分類やらに対して、いちいち「非科学的だ!」などと目くじら立てないくらいの諦念は持っている。それでも「A型の人は〜だから」みたいな安直な評言を耳にすると、どうしても心の中で中指を立ててしまう。

 また一貫して僕が嫌いな言葉に「癒し」というもんがある。まあ、これを嫌いだと主張する言説はウェブ上でも散見できるでしょう。僕が嫌いなのも、大体そのレベルと思っていただいてよい。とにかくこの言葉を聞く度に心の中で「ファック・ユー」で毒づいてしまう。

 さて、「A型の心のいやし方」という本を目の前して、僕はどういう反応をするのか。そりゃ当然中指を立て、「ファック・ユー」と実際に口に出すしかない(そのまんまやんけ)。

 何でお前はそんな本を持っているんだと言われそうだが、自分の金で買ったものではない。女友達からもらったのだ。その友人は否定するのだが、その人と酒を飲んでいてもため息をついて虚空を見つめるような激鬱状態だったのをみかねて本をくれたのだと思う。

 全く本の内容に触れてないが、その必要もないだろう。題名から想像できるとおりの内容だ。でも悲しいかな、僕自身ここで書かれる「A型」の人間像にびしばしヒットするのだね。勿論こういうのは占いと同じでどういう人間でもひっかかるような言葉が使われていて・・・などとは言い訳できるのだが、人間としての底の浅さをみくびられたようで情けなくなる。

 先日件の女友達からお誘いを受けて久方ぶりに飲みに行った。彼女が飲みたいというときは大抵何かあったときなのでこっちも警戒してしまうのだが、やはりそうだった。飲みすぎて、路上でゲロる姿を目の当たりにするのははじめてだったが、特に驚くこともない。彼女もA型で、妙なところで鬱屈するところや、物事を悪い方に考えたがるところは僕と共通する。

 しかしねえ、一方に出来合いの口当たりの良い言葉ばかり並べ、一方にどうでもいいような挿絵を入れた薄っぺらな本で1000円近く取れるなんてね。いい商売してるよ、まったく。


大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫)

 夏になると大岡昇平が読みたくなる。正確に書くと彼の「野火」であるが、教科書で読んだ高校二年の夏以来、現在でも夏に実家に戻ると、枕元の「野火」を手に取り読み耽ることがある。彼の小説の美点ならいくつも挙げることはできるが、何より彼の冷静でありながら意志を感じさせる文体が好きなのだろう。

 しかし、「野火」は読んでも「俘虜記」にはこれまで手を出さずにいた。「野火」で十分な気もしていたし、聞こえてくる評判から退屈なものを想像していたからだ(「レイテ戦記」は何かで入院したときにでも読もうと思っている(アホですな))。

 本書を際立たせているのは冒頭の「捉まるまで」における米兵を撃たず俘虜になった大岡の心理描写であるとよく言われ、スタンダール張りの緻密な心理描写の極致という人もいれば、一方それをうそ臭いと拒絶する人もいる。実際に読んでみて彼の作家の出発点となるこの作品において作家としての独自性・論理性を貫徹できた彼の偉大さを感じた。僕にその真実性をどうこう書ける資格はない。

 しかし、本書はその心理描写のみで語られるべきではない。本書全体に言えることであるが、安直にフィクション化せずに体験記として書かれたところに大岡の真骨頂があるように思う。ただ戦争体験の対象化は別の問題であり、「野火」が生まれるまでにはそれなりの時間を要したわけである。

 「野火」の倨傲と迫力は本書にはない。しかし、人間観察における普遍性という点では本書の方が価値が高いのではないだろうか。飢えに苦しみながら死線をさまよっていた状態から一転して一日2700カロリーの食事に飽食し、密造葡萄酒に酔い、大岡は春本を書き俘虜の間で流行作家になるのだから皮肉としか言いようがないが、彼の精緻な筆致は一貫している。

 そうした意味で「退屈」と思われがちな俘虜の日常描写にしても、これは当時の読者にとっては前提条件であった戦争体験の皮膚感覚を考慮する必要がある。さすがに当時から半世紀以上経った現在の読者の目からすれば苛々させられる部分もあるが。「労働」の章などなくてもいいのではないかとすら初め読んだときは思ったくらいだ。

 あと個人的には「演芸大会」の章が一番面白かった。そこに後の花柳文学の傑作「花影」の成立を予感する、というのはいくらなんでも書きすぎであるが、他の章とは異質な妖しさがあるのは確かである。


大崎善生「聖の青春」(講談社)


ジャック・マシューズ「バトル・オブ・ブラジル」(ダゲレオ出版)

 当代最高の映像作家の一人であるテリー・ギリアムのハリウッド進出作品にして、現在もカルトSFの名作という評価を得ている「未来世紀ブラジル」(1985年)の製作・公開を巡るルポルタージュである。

 「未来世紀ブラジル」については、以前にもとある訳文の訳注で暴走して書いた文章があるので、そちらを見てもらえば本書の中心的なストーリーは分かっていただけると思う。

 本書は、著者の言葉を借りれば「傍観者というよりもはるかに当事者の立場にあった」ジャーナリストによって書かれたもので、基本的な姿勢としてはギリアム側に共感しながらも、実証的で公平な視点から書かれていて、好感が持てる。80年代のハリウッド業界の内実を知る好資料でもある。ただ、どろどろしたスキャンダル関係の話はあまりないので、そちら方面が好きなだけのゲスにはオススメしない。

 ただこれははっきり書いておかなければならないのは、これは単なる「芸術家 vs 資本家」「自由主義 vs 官僚主義」「善 vs 悪」、並びに前者の後者に対する勝利(敗北?)の話ではない、ということだ。そんな単純な話ではないのだ。ギリアム側にも落度はあったし、シャインバーグ側にも十分な利もあった。

 「未来世紀ブラジル」を巡る悲劇というのが、シャインバーグがこの映画を忌み嫌ったからでなく、寧ろ気に入った部分もあり、自分の手で何とかできると思ったことにあった。彼は自分の権力の行使の仕方を誤ったのだ。そうしたところが皮肉であるし、それは本書の各章につけられた意味ありげだが意味不明の章題の由来が分かったときのブラックさと通じる。また、ギリアムが苦心してロサンジェルス映画批評家賞を取ったことが、後に反動をもたらすところなど、本書のストーリーは一筋縄にはいかない。

 そしてそれは「未来世紀ブラジル」自体にも言えることだ。オーウェル的未来像だの、官僚制の弊害だの、そうした単純な命題から一歩踏み込み、人間にとっての想像力のありようまで踏み込んでいるでいるからこそ、あの映画は現在も古びていない。もしギリアムのビジョンがそんな安直なレベルに留まっていたら、デ・ニーロが「消失」してしまうあの映画史上に残る場面など考え付きもしなかっただろう。


一橋文哉「闇に消えた怪人 グリコ・森永事件の真相」(新潮文庫)

 グリコ森永事件が起きた当時、僕は小学生だった。「劇場型犯罪」などと呼ばれたが、劇場にしろ犯罪にしろ何も分かってないガキだった当方にとっても非常に刺激的な事件には違いなかった。

 しかし、よく分からないことも多かった。子どもながらに考えても色々とつじつまの合わないことが多すぎた。どうしてグリコだったのか? どうして犯人はつかまらないのか? 結局怪人二十一面相は儲けたのか損したのか?

 その後も結局全ての事件が時効に至るまで、僕はあの事件で社会が受けた後遺症とともに成長してきた・・・わけがあるかよ。グリコ森永事件に関しても、たまにテレビが取り上げればぼんやりと見るくらいで、特に詳しくはない。しかし興味はあったので、本書を読んでみた。

 とにかく面白い本である。著者も執念を持って追いかけた事件なので、動機、犯人像、事件の各トピックについての分析に至るまで、著者が力強く事実を切りとっていて、いちいち説得力がある。犯人像にしてもグリコ関係者説、左翼説、右翼説、仕手集団説、暴力団説、韓国ルート説、と色々あり、ところどころハズレもあるが(流通関係を狙った、というのは明らかにおかしい)殆どはイヤになるくらい納得させられてしまう。

 おまけにそれぞれのルートが思わぬところでつながりを持つ。それに被害者側の事情や、警察、検察の捜査を巡る軋轢、矛盾、大失敗といった小ネタ(と言っちゃいかんのだろうが、アベック襲撃事件のあたりの記述などはギャグにしか思えん)までどうしようもなく面白い。不愉快まで達する面白さと書けば分かってもらえるだろうか(なんじゃそりゃ)。

 ただ後半になるといささか切れが悪くなる。それはいわゆる「闇の勢力」というものと対峙するときの見とおしの悪さであり、それは著者にとっての行き止まりでもあった。宮崎学が毛の生えてないちんちんに見えるくらいの闇、と書けば分かってもらえるだろうか。それぐらいの底知れなさが著者の前に立ちふさがった。

 結局のところは犯人を特定することは、警察にもこの著者にもできなかった。そうした意味でフラストレーションはたまる・・・のだが、単行本版最後の紹介される手紙(ネタばらしはしないでおこう)、時効に際して書かれた追記、そして出久根達郎による解説に書かれるあっと驚く犯人説に至るまで、とにかく本書には翻弄される。本当に面白く、不愉快な本だった。


井口俊英「告白」(文藝春秋)

 今年の9月20日、大和銀行の現・旧経営陣十名余りに対して起こされていた株主代表訴訟に対して大阪地裁は、計7億7500万ドルもの巨額の賠償を命じた。その訴訟のもととなった事件の顛末をその当事者が綴った本である。この本を読んでいる最中に件の判決が下ったわけであるが、それは単なる偶然である。最近の読書記録を読んでいただければお分かりの通り、ノンフィクションを買いこんでいたのだ。

 本書の内容は、大和銀行ニューヨーク支店に勤務していた著者が、12年もの長きにわたる米国債の無断取引の末11億ドルもの損失を出し、それを告白後、4年間の実刑判決を受け、2年の刑期を終えるところ(は文庫版のため書き下ろされたもの)までが書かれてある。

 いやー、金額がでかい。日本円にして一千億円単位だぜ、まったく。それを一行員(だけじゃないのだが)による不正取引による損失を出し、それを隠し続け、それを本人が頭取宛てに告白状を出すまで露見しなかったというのも改めて驚かせる。

 もう90年代も終わり、二十世紀も残り二月を切ってしまった現在であるが、日本経済にとっての「失われた10年」のある内実を確認する上で価値のある本である。大和銀行上層部、大蔵省、そして米国の検察当局、金融当局、司法当局がそのときどのように動いたかリアルに確認できる。

 ただこの事件を「日本の官と民が談合して、透明な市場経済たる米国において、その米国の法律を無視したもの」という一般的な見方を著者が否定、批判し、「大蔵が不当なルールの適用を米国当局に許したため」と主張しているのは面白いし、この主張は頭に留めておいた方がいいかもしれない。

 また本書は著者の半生記にもなっている。だが、それと事件に対する率直な記述を読んでも、当たり前だが特に著者に共感も同情も覚えなかった。少々気取ったことを書いたところで、著者はただのクソ甘ったれたバカ日本人に過ぎないからだ。


坂口安吾「肝臓先生」(角川文庫)

 安吾は僕が最も愛している小説家である。そして、安吾を初めて読んだのは角川文庫版「堕落論」であった。その後角川版の「白痴・二流の人」「不連続殺人事件」を買い継ぐことで僕は安吾を辿っていった。

 本書は今村昌平が表題作を「カンゾー先生」として映画化した際に新装されて出たものである。それからしばらくしてから購入したものであるが、現在まで読まずにいた。本書に「私は海をだきしめていたい」といった既読の作品があったせいもある。

 先ほど安吾のことを「最も愛している小説家」と書いた。この気持ちは本当のことだが、こういった心情は実に下らないものである。そうして一件落着した時点で、その作家と読者である自分を安全圏に持っていくだけだからだ。

 そういうことに思い当たったのも、表題作の「肝臓先生」が本当に詰まらない作品だからである。ただの駄作である。どうしてこんなものを今村も映画化しようと思ったのかと訝しくも思うが、逆にそれだからこそ彼自身の映画にできたのかもしれない。

 そうした意味で「ジロリの女」「行雲流水」に描かれる女性像はずっと魅力的で、特に前者などは、僕自身の恋愛の嗜好性と合うせいか、読んでいて非常に心地よかった。男性陣の描写の軽さが逆に、深刻にならない物語性に貢献していて、効果を上げているように思う。

 「魔の退屈」は、安吾の戦時中の体験を書いた私小説であるが、荒正人や平野謙といった後に「近代文学」の同人となる知識人の「石に噛りついても」生きるという確信を甘いと切り捨てる・・・という構図は彼でなくてもやっているのかもしれないが、その対照として安吾自身を持ってくるのではなく、彼の女のハリアイのない笑顔の中に「悪魔の楽天性と退屈」を見出すところがいかにも安吾らしい。

 そして「私は海をだきしめていたい」だが、五年以上前初めて読んだときは、僕は私小説が大嫌いで(今だって嫌いなのだが)、反射的にこの作品にも悪い印象を持ったが、僕の親友は、「(この作品を収めた新潮文庫版「白痴」の中で)これが一番好きだ」と言っていたのを覚えている。後に、僕は結婚についての文章を書く際にこの作品を引用した。その認識は基本的には変わっていない。奥野健男ではないが、僕もやはりこういう真面目な作品が好きなようだ。


沢木耕太郎「壇」(新潮文庫)


見沢知廉「天皇ごっこ」(新潮文庫)

 僕はそっち方面の事情には詳しくないので、見沢知廉が獄中で書き上げた「天皇ごっこ」が新日本文学賞を受賞し、大幅加筆され単行本になり、そして今年文庫化されるまでの作品自体、そしてその評価の推移はまったく知らない。ただ以前から読みたいとは思っていた。しかし、新潮文庫からこんな早くに文庫化されるとは予想してなかったので、新大阪駅の本屋で見かけたときには、「壇」とともに手に取り急いでレジに向かった。

 そっち方面(だから、どっちだよ!)に詳しくない僕が本書に興味を持ったのは、やはりユニークな表題があったのは間違いない。つまり、僕の興味には一種の怖いものみたさも含まれていた。内容的には結構滅茶苦茶かなとも思っていた。ところがどうして、これがなかなかよくできた小説である。著者が書く、「この一冊を読むだけで、監獄、右翼、左翼、精神病理学、北朝鮮の通になれる」という実用性よりも、作品そのものが持つ文学性の方が勝っている。

 ただ章毎にいくらか評価も変わってくるようには思う。本書には二つの時系列、舞台が交互に書かれる形で進められる章が三つある。戦前の左翼青年(モデルは明らか)と、それから数十年経った後の在日朝鮮人の右翼青年の交差が、作品構造としてうまく作用している章(第二章)もあれば、真の天皇主義を目指した右翼の流れと北朝鮮に降り立った民族派とよど号ハイジャック犯との歴史的会合(!)までを交差させた章(第五章)は、その必然性が感じられなかったりもする(但し、読み物として面白いのはむしろ後者)。

 そうした意味で成功していない部分、著者自身の抗弁にも関わらず杜撰さを感じさせる記述もあったりするが、秀作の域に達しているのは間違いない。

 宮台真司による解説も、99年時点での彼の強みと弱みが両方出た興味深いものになっている。

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初出公開: 2000年07月20日、 最終更新日: 2002年06月17日
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