yomoyomoの読書記録(2004年上半期)


鈴木芳樹「[はてな]ではじめるブログ生活」(ディー・アート)、水野貴明「はてなダイアリーガイドブック」(毎日コミュニケーションズ)


日本将棋連盟書籍編集「米長邦雄の本」(日本将棋連盟)

 米長邦雄永世棋聖の引退を記念して編まれた本である。

 米長については、彼が史上最年長で名人位を獲得したときに同じく日本将棋連盟により編まれた冊子を持っており、本書を買う必要はないかとも思ったが、ワタシの将棋の師であり(と勝手に思っている)、人生航路という意味でも大きな影響を受けた人である。これはやはり買っておくのが筋であろう。

 一読して、当然ながら前述の本にあった華やぎは望むべくもないし、内容的にも寂しいものを感じた。

 特筆すべきは、伊藤能、先崎学、中川大輔の三人が書き下ろした「弟子が語る米長邦雄」である。特に先崎による、米長玉と称される形についての解説が面白い。

しかしこの米長玉の意味は、単に囲いの形ではない。序盤戦から終盤戦を見据える感覚のようなものである。序盤で一路でも中央から遠ざかっておけば、必ず終盤でそれが生きてくる。この発想はおそらく当時にはなかった。皆終盤で負けるわけである。そしてこの感覚は、居飛車穴熊へと発展して将棋界の風潮を大きく変えることになる。

 秀逸な分析である。しかし一方で、思い入れがあったものの謎を解かれてしまったような感じもする。米長の感覚が、現在のプロ将棋に支配的な、とにかく玉を固めたもの勝ち、できるなら穴熊にしたい、という風潮につながるというのは、それをワタシは至極つまらなく思っているので、愉快な話ではない。同じく米長の引退に合わせて復刊された「米長邦雄の将棋1」(MYCOM将棋文庫DX)の解説で羽生善治が書くように、米長の将棋には「力強い玉捌き」があったことを加えないと十分でないことは強調しておきたい(もちろん先崎も、上に引用したのに続く段落でそれに対応したことをちゃんと書いている)。

 さて、本書に「生涯をかけた一局」として、米長はその羽生との第52期名人戦第四局を選んでいる。本書は、羽生世代との関わりが、米長のプロ人生後期の大きな主題だったのがよく分かる本でもある。現役最後の三局が、佐藤康光、森内俊之、そして郷田真隆という羽生世代の面子、しかも三人とも和服で対局に臨んだというのも象徴的である。

 正直、現在の米長の写真を見て、老けたなぁとどうしても思ってしまう。誰しも衰える。いみじくも伊藤能が書いている。

 不遜な言い方になるが、引退の話を聞いたときは、正直ほっとした。先生の不出来な棋譜は見たくなかった。本当の意味での引退は、あのA級陥落、フリークラス転出のときだと思っている。

 中川も同趣旨のことを書いているが、これはファンの偽らざる気持ちでもあろう。

 その米長の今後であるが、個人的には彼の政治性、政治的立ち位置には正直ちょっとなぁと思うところも多いので、その方面で名前が出るのはあまり嬉しくないというのが本音だが、大きなお世話には違いない。今は何より長年のファンとして彼に感謝し、その奮闘を労いたい。

 僕はあなたの魅せる将棋が一番好きだった。


結城浩「結城浩のWiki入門」(インプレス)


サイモン・シン「フェルマーの最終定理」(新潮社)


田口元「アイデア×アイデア」(英治出版)

 おなじみ海外のドットコムサイトの紹介で一家を成す百式の書籍化である。

 読む前には、メールマガジンがそのまま本になっただけではどうだろうかと思っていたのだが、見開き2ページで一つのサイトを紹介する形式で、左側にメールマガジンの文章にあたる部分、そして右側にそのサイトの製品・サービスを紹介する画像(とその説明)が来る形式で読みやすい。

 本書の刊行に合わせた記念イベントの後、著者に宴席で二点質問させてもらった。一つは、サイトで紹介し、本に収録しようと思ったが、そのサイト(サービス・製品)自体無くなっていたということはないか? 答えは、たくさんあるとのことで、やはり移り変わりの激しい業界ならではだろう。それでこれだけのバリエーションを揃えるのは見事とも言える。ちなみに、本書の中に収録されているものの中にも一つそうしたのがあるらしい。

 百式ナイトなどに行かれたことのある方ならご存知だろうが、田口さんは百式の作成・配信を一挙に行うシステムを独自に作成されている。そのインタフェースには、百式の最後に掲載されている「今日の運動記録」における腕立、腹筋、背筋の回数を記述する項目があるのだが、当方の質問の二つ目は、アレいつも0回なんですが、一体アレの最高記録は何回ですか? その答えは……どうやら、これは聞いてはいけない質問だったようだ。

 本書を電車の中で読んでいて、「つまらないなあ」と思った。誤解しないでいただきたいのだが、本の内容がつまらないのではない。本書は一人で黙読すべき本ではないと思ったからだ。既にいろんな人が書いているように、本書は何人かで見合いながら雑談のネタにしたり、わいわい語りつつアイデアを膨らますために利用すべき、実用的な本である。百式の書籍版である本書は、それに適したインタフェースを持っているだろうか。書籍という媒体と複数人が見合わせるのに適したデザインの両立が、今後の課題なのかもしれない。かなり酷な要求だが。


講談社文芸文庫編「戦後短篇小説再発見〈10〉表現の冒険」(講談社文芸文庫)


安藤進「翻訳に役立つGoogle活用テクニック」(丸善)

 これは読んでおくべき本でしょう、ワタシ的に。著者は2001年に「技術翻訳のためのインタ−ネット活用法」(丸善)という本を上梓している。そちらは未読なのだが、本書はその検索対象を Google に絞ることで内容を深化させた本なのだと思う。

 英和訳の話だけかと思っていたのだが、和英訳、英和訳の話が半々ぐらいだった。本書で紹介されている手法には、既に実践しているものもあった。だから当方にとって本書の価値が低いと言いたいのではない。自分のやり方が間違っていなかったこと、またそしてその手法のあと一歩の突きつめ方が分かってよかった。例えば、英文を書くとき、フレーズ検索をやらないで書いていた頃は、相手にしてみれば「へ?」と言いたくなるような妙な形容詞+名詞の組み合わせをしてたんだろうな、と思うのだ。

 Google に絞る必然性を持った内容になっているし、仕事で英文に触れる機会が多い人は、読んでおいて損のない本である。はじめに一日これだけで一ヶ月かかるとかいう説明があるが、ご冗談を。150ページ足らずの本である。図書館で一時間で読める。

 以下、自分のために気になったところを箇条書きしておく。


ゴーゴリ「外套・鼻」(岩波文庫)

 ワタシは未だにドストエフスキーを最高の小説家と考える旧弊な人間なのだが、彼の作品だけ読み、あとはチェーホフなどを少し読んだぐらいでいっぱしにロシア文学について知った気になっていたのはまったくおめでたい話である、と本書がタダみたいな値段で売られているのを見かけたとき思い出し、購入した次第である。

 「外套」を読んでまず思ったのは、二葉亭四迷は「浮雲」などを書くとき、ゴーゴリの小説を参考にしたのかなということである。ワタシは文学史に関する知識を持ち合わせていないので実は全然違うかもしれないが。あと芥川龍之介への影響、というのも。

 訳者は本書の「解題」において、「小説《外套》はその根本思想の深刻高遠な点では、ゴーゴリの書いたあらゆる傑作の上に位していると断言することができる」とものすごい勢いで賞賛しているが、今「外套」を読んでワタシがまず感じるのは、主人公の生がもたらす紛れもない滑稽さ、惨めさであり、うっかりすればそこで止まってしまう。

 難解なところなどまったくない小説である。中学生でも読み通すことはできる。しかし、今の中学生、高校生が「外套」を読み、果たして彼らはこの惨めな主人公に、訳者の書く一種の尊敬、《人間》としての愛を感じるだろうか。ワタシはそれに疑問を抱かざるを得ない。

 だからこの小説に現代的な価値がない、と言いたいのではない。寧ろ問題なのは、我々現代人が失った情動である……と書くと何やら説教臭いが、前述の通り自分自身に対してもその不安を感じるのである。

 「鼻」のほうは、見事なファルスで、設定の滑稽さ、シュールさと写実的な描写手法の両立が成功しており、現在小説としての価値が残っているのは「外套」よりも「鼻」のほうだろうなと思ったりもする。

 さて、ここまで書いておいてなんだが、本書に収録されている二編とも、青空文庫においてダウンロードでき、書籍を買うまでもなく入手できます。


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初出公開: 2004年01月19日、 最終更新日: 2004年06月28日
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