二度目の跳躍・二度目の悲劇
--追悼ロジャー・トラウトマン--


 人間は誰しも望む/望まないに関わらず、人種・国籍・性別で大まかにカテゴライズされる。カテゴライズの根拠は大体において表面的であるし、安直な差別意識であることが多い。

 しかし、当方のような東洋の黄色い猿からすれば、黒人の音楽的資質には圧倒的なものを感じてしまう。無論彼らの中にも僕より音痴な奴が(かなり少ないだろうが)存在するだろうし、僕より踊りの下手な奴も(更に可能性は低いが)いる筈である。


 ロックンロールの開祖を一人に絞ることなんてできないが、やはりチャック・ベリーあたりが最有力だろう。もう少し裾野を広げ、リトル・リチャード、ボ・ディドリー、ファッツ・ドミノあたりも入れたとしても、彼らもまた皆黒人である。しかし、その後主に白人がロックを隆盛させたのは、逆に彼ら白人にある種のぎこちなさがあったからだ。黒人のように軽やかに跳躍はできないが、その分音が批評的、観念的、構築的になった。それこそが白人ロックの武器であったわけだ、というのは渋谷陽一の受け売り。

 しかし黒人はそんな彼ら(そして我々)のぎこちなさを軽々と飛び越えてみせ、多くのロックミュージシャンを失語状態に追い込む。


 例えばスライ・アンド・ファミリー・ストーン(というかスライ・ストーン)のリズム・ボックスの導入。

 黒人音楽の大きな特色にリズム志向がある。レア・グルーブが武器であるならそれをとことん活かそう、というのが普通の発想。そこが足らんならなんとかして真似して近づこう、というのが凡百白人ミュージシャンの発想。しかし、スライはそれをあっさり単調なリズム・ボックスに置き換えてしまった。

 それにより音楽自体が単調になるどころか独特の冷ややかさ・人工的な肌触りを獲得し、ファンク・ミュージックは一段と深化を遂げた。


 冒頭で述べた通り、黒人の音楽資質として優位性を感じるのはリズム感だけではなく、歌唱力も圧倒的である。白人ロックミュージシャンにも傑出したボーカリストは多いが、彼らの殆どは熱狂的な黒人音楽愛好家であり、ソウルフィーリングの優れた解釈家である。オリジナリティを確立したにしろ、下地にあるのは飽くまでブルーズでありR&Bなのだ。

 70年代後半、一人の黒人ミュージシャンがあっさりその優位性を捨て去り、跳躍を果たす。モダンなファンク・ミュージックをヴォコーダ(トークボックス)を通して歌い上げたのだ。いい加減前振りが長過ぎたが、彼こそがロジャー・トラウトマンである。


 ロジャーの場合、スライのようなイノベーターとしての評価は余りされていない。トークボックスの導入にしても、戦略的なものでなく、実際問題彼にボーカリストとしての優位性がなかっただけなのかもしれない(スティーヴィー・ワンダーの影響だったという説もあるし、ダース・ベーダーの声を真似たかったというファンキーで愉快な話もある)。

 しかし、90年代における最大のポピュラー・ミュージックにまで拡大したヒップ・ホップの源流は、ネルソン・ジョージが正しく指摘するように、都会的なソウル、ファンクとクラフトワークが体現したヨーロピアン・テクノミュージックの出会いに行き着く。

 オーバーグラウンドの黒人ミュージシャンでこれを最初に意識的に行ったのは多分アフリカ・バンバータだろうが、都会的なファンクとテクノをいち早く血肉化し、ヒットを飛ばしたロジャーももっと評価を与えられてしかるべきだと思うし、現在の(特に西海岸勢の)ヒップホップにも彼の影響がはっきり見て取れる。


 悲しいことに、1999年4月25日、彼は死去した。バンドのパーカッショニストであり実の兄であるラリー・トラウトマンに撃ち殺されたらしいのだ(ラリーも銃で自殺している)。

 ロジャーの場合、音楽的・財政的に行き詰まっていたのだろうと思う。マネージメントをやっていたラリーからロジャーが離れたがっていたようだ。90年代は活動自体低調だったし。

 ロジャーの訃報の詳細を Web で読み(ここ数年、訃報を最初に知るメディアが Web になってしまった)、僕はマーヴィン・ゲイの悲劇を想起した。ソウル・ミュージックの最大の巨星の一人であるマーヴィン・ゲイは、84年実の父親(しかも牧師!)にスイカのように頭を銃で吹っ飛ばされて死んでいる。


 古典的な芸術家観、つまり個人の才能至上主義が浸透している白人ミュージシャン(そして我々)からすると、特にファンク、ヒップホップミュージシャンの間に根付くコミュニティ主義にはかなり違和感を感じてしまう。"One Nation Under Groove!" などという呼びかけを聞いても、そうした土壌なしにはどうしてもシニカルに構えてしまう。

 しかし、例えば現在ヒップホップ界最大のグループであるウータン・クランを見ても、十人近くのメンバーがそれぞれ異質な才能・人格を持ち、ソロでもかなりのセールスを獲得しながら、ウータン・クラン本体として強烈な「コミュニティ」を形成してしまう。彼らがカンフーだか空手だかの合宿をやったという話をはじめ聞いたときは、正直「なんじゃそりゃ」だったが、これも一種の伝統に則った行動原理なのだ。

 70年代ファンクでは、Pファンク軍団がパーラメント、ファンカデリックなどの名義を大体同じメンバーが使い分けながら強烈な物語性を産み出したし、80年代におけるロジャーとザップにしても同じ事で、Pファンクほどのダイナミズムはなかったにしろ、メンバー構成・音楽性に差異はなく、一種のファミリー性を打ち出していた。


 しかし、前述のファミリー感覚、コミュニティ主義は、関係性が緊密過ぎるが故の悲劇を招いてしまうこともあるだろう。僕は今回の事件にアフロアメリカンの伝統における影の部分を感じてしまう。

 ドラゴン・アッシュの成功でもって日本にもヒップ・ホップが根付いた、と結論するのは早計だろうが、日本語におけるラップが「お笑い」に行き着いていた頃からすると(そこらへんに自覚的・確信犯的だった近田春夫はつくづく偉大だ)、確実に一歩前進であることは確かだ。しかし、「Yo! ブラザー」感覚に未だにケツの穴がかゆくなるような気恥ずかしさを感じてしまうのは、洋楽と異なり歌詞がダイレクトに伝わってしまうせいだけではあるまい。彼らが真のコミュニティ至上主義(の恐ろしさ)をリアルなものとして理解してないからではないだろうか。


 ロジャーから話が外れてしまったが、現在に至るまで音楽雑誌でも彼の訃報がそれほど大きな取り上げ方をされてないのは残念だ。彼のトークボックスの導入は実に黒人音楽的な跳躍であった。有名な楽曲を料理するのがうまいこと、前述のファミリー志向など、80年代に彼のような正統的(?)な個性がいたことは本当に貴重だったと思う。そして彼はそのアフロアメリカンの負の伝統に飲み込まれ、命を落としたのだろうか。

 ロジャーの最大のヒット曲 "I Wanna Be Your Man"(1986年のアルバム「Unlimited!」収録)を聴くと、僕は嫌でも大学一年の夏を思い出す。あの曲は僕の内側で、記憶の中の夏と溶け合っている。しかし、そうした陶酔を一歩越え、少しでも音に批評的に近づこうとするとき、彼らの音楽、そしてそれを支える文化は僕にとって壁としてそびえている。深く愛しているつもりでも、僕がブラック・ミュージックにどこか身構えてしまうのはその壁への意識が原因だったことにようやく気付くのである。


[後記]:
 30代と思しき読者の方数名が、誉めてくださった文章。ブラック・ミュージックを自分なりに対象化する、というチャレンジはそれなりに成功している。でも文章の展開が情けないくらいにぎこちない。


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初出公開: 1999年06月26日、 最終更新日: 2000年01月14日
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