『考えるヒント』で読み解く!


タイトルは「インターネットで読み解く!」のパクリ、というかジョークの類なので本気にしないでください。

 ヒント、という言葉を聞いて個人的に思い出すマンガがある。中川いさみの『くまのプー太郎』だったと思うが、作者が電車内で見かけた中年の男女だったか、男性の方が女性の方に「あなたはどうしてそうなんですか。この間ヒントを教えたでしょうが! ヒントを!」などと叱っている絵である。その情景を目の当たりにした作者は、「おいおい、ヒントでなくて答えを教えてやれよ」と心中ツッコむわけだが、小林秀雄の『考えるヒント』は、そのタイトル通りワタシがいろいろと思考を進めるのを助けてくれた本である。実際そうした役割を果たした書籍があるというのはありがたいことだと思う。

 批評家としての小林秀雄の評価については、特にここで論じるつもりはない。それについて偉そうに書けるほど小林の著書を網羅的に読んでいないというのがまずあるし、何より本文は『考えるヒント』を適当に引用(我田引水とも言う)しながらだらだら書き連ねる雑文に過ぎず、それ以上の意図がないからである。

 どうも未だに「批評の神様」という言葉に振り回されている人が多いようで、文学青年でもないワタシから見ると、始めから小林秀雄を貶してやろうと意欲満々な人(嵐山光三郎とか)の文章を読むとげんなりしてしまう。

 言っておくが、小林秀雄は思想家でも哲学者でもない。ワタシにしても坂口安吾が「教祖の文学」と喝破した、小林の鑑定人的な姿勢に気に食わないところもあるが、それでも『考えるヒント』ぐらいのものを書けるなら、その鑑定力を認めざるを得ない。もしくは、ワタシも歳を取ったということかもしれない。


 まずは以前にも引用したものから始めよう。「日本におけるblogの過去・現在・未来」の自作解題以下において、『考えるヒント』収録の「読者」における以下の文章を引用させてもらった。

作品とは、めいめいの孤独を発表する手段だと慣れて来たが、アメリカに来てみると、事はあべこべらしい。例えば、西部で農場を経営している一人の女性が、孤独に堪えかねて、或は、自分の孤独の独創性を単純に信じ込み、これをニューヨークのラジオ解説者にぶちまけたら、どんなにせいせいするだろうと考える。アメリカの小説家のやり方は、ほぼこれに似ているらしい。つまり、作品とは、孤独から解放されんが為の機会なのである。文学の仕事は、学校とも聖職とも何の関係もない。彼等の求めているものは、名誉ではなくて、寧ろ友愛と言った方がいいのではあるまいか。

 以上は正確には、小林でなくフランス人であるサルトルの述懐なのだが、サルトルが感じたアメリカ文学に対する驚きから、コミュニティ、コミュニケーションという言葉が、それ自体善みたく語られるウェブログ方面に対する当方の戸惑いを書かせてもらった。

 その戸惑いは今もあるが、割り切りはついた。『ウェブログ・ハンドブック』の翻訳が終わったというのもあるが、結局のところ、自分はどういったコミュニティにも属してこなかったし、これからもそうであることに納得できたということである。Rebacca Blood は、コミュニティの形成にウェブログの新しさを感じたのだろうし、そのコミュニティへの熱意と愛情が、『ウェブログ・ハンドブック』を書く原動力となったのは間違いない。一方でワタシは、常に一介の間借人の雑文書きであり続けるということ、輪の外から自分が面白いと思うことを幅広く読者に提示しながら、最終的に自分個人の孤独を言葉にしていくことに変わりはない。

 それが関係するコミュニティにどう評価されるかはまた別の問題である。というかこれまでほとんど評価されたことはないのだが、だから何だってーの?


言うまでもなく、マス・コンミュニケーションの研究は、アメリカが本場だが、私が読んだ限りで、私の興味をひいたのは、研究そのものではなく、寧ろいかにもアメリカ風な研究であるという点にあった。(中略)アメリカの研究者達は、恐らくあまり自明な事なので、意識していないのであろうが、研究の前提については、何の不安も感じていないという事だ。話を文学に限るなら、研究者達は、一般読者というものの歴然たる存在、その一種の統一性或は健康性を確信している。だからこそ、これに対するマス・コンミュニケーションの影響力に関し、あのように自信に満ちた、或は無邪気な研究論文が続出するのだ。
(小林秀雄「読者」)

 すべてを国民性の問題に帰着させるつもりはない。『ウェブログ・ハンドブック』を読んで面白く思ったのは、ウェブログのプライベートな、狭い範囲での用途をちゃんと考慮していることである(そこで提示されている手法の有効性には疑問を感じたりもするが)。

 「ウェブログはコミュニケーション志向でウェブ日記なんかとは違って……」みたいなことを未だに青筋を立てて書く人もいるのだが、このアメリカ的な、正確には日本人がそうだと思っている、コミュニケーション、並びにそのためのチャネルを公開することを無闇に善とする風潮は、徐々に修正されていくことだろう。

 いずれにしろ多様な選択肢があるというのはユーザにとって好ましいことだし、少なくとも一年前よりは、その意味においては風通しは大分よくなったとは思う。


 以前話題になったネットでの儀礼的無関心の話も、上の話に付随する流れの一つだと思う。少し前にも加野瀬未友さんが取り上げていたが、ワタシはそれが話題になっていた頃忙しかったというのもあるが、何より話題そのものに萎えるというか、生産的なことが書けそうになかったので黙っていた。

 今更だが自分の立場を書いておくと、当サイトのコンテンツについては、遠慮なく言及、引用してくださいな。特に当方が条件を付けなければ(一つだけそうしたコンテンツが存在する)どのページであれリンクもどうぞご自由に。まあ、言うまでもないけど。

 話を戻すと、どうしてネットでの儀礼的無関心の話に萎えたのか。もちろんワタシだって、あえてリンクしないで済ませることはある。しかし、そうした配慮はそれぞれの心の内にしか存在しえないもので、集合的なものとして組織化できるものではない。今回のネットにおける儀礼的無関心、と称する呼びかけ自体、マナー、ネチケット(おえっ)の領域を超え、一種の抑圧につながりかねないからだ。それでは儀礼でも何でもない。

良心とは、はっきり命令もしないし、強制もしまい。本居宣長が見破っていたように、恐らく、良心とは、理智ではなく情なのである。彼は、人生を考えるただ一つの確実な手がかりとして、内的に経験される人間の「実情」というものを選んだ。では、何故、彼は、この貴重なものを、敢て、「はかなく、女々しき」ものと呼んだのか。それは、個人の「感慨」のうちにしか生きられず、組織化され、社会化された力となる事が出来ないからだ。社会の通念の力と結び、男らしい正義面など出来ないからだ。
(小林秀雄「良心」)


 上に引用した「良心」は、「ヒットラーと悪魔」、「ネヴァ河」と並び、『考えるヒント』に収録された文章の中で、個人的に最も読み応えを感じるものである。しかし、最後に孟子の性善説に触れ、それは少しも古ぼけていない、荀子の性悪説、そして現代の唯物論もこれを論破できなかったと結ばれており、これにはちょっとがくっときてしまう。

 当方はガチガチの相対主義論者ではないけど、Paul Graham も書くように、道徳にだって流行があり、流行の道徳は善と誤解される。確かに恐ろしいことだが、それが現実なのだから仕方がない。どうして小林は、「善」、「悪」自体から疑ってかからなかったのか。

 ただこのあたりについては、これはこれで筋が通っていると思う気持ちと、いや、それじゃダメだろうという気持ちが両方あり、ワタシ自身判断が揺れるところでもある(ワタシにしても上で「善」という言葉を簡単に使っていたりするわけだし)。

 そうした気持ちの揺れは、Wiki についての言説に感じるものと近いことに最近気付いた。Wiki を語る際に、「性善説」という言葉がよく使われる。つまり、誰でも書き換え可能なウェブページなんて、性善説を前提としているに違いない、というわけである。

 言いたいことは分かる。しかし、本当にそうなのだろうか。これはがりぃさんに指摘されて気付いたのだが、『Wiki Way』には一度たりとも「性善説」、「善性」にあたる言葉は出てこない。そうした言葉に依存していないのだ。


 ワタシが気にしすぎなのかもしれない。しかし、一方で「性善説のメディア」といった言葉で隠蔽されてしまうものがあるようにも思うのだ。Wiki を支えるインセンティブをより適切に表現する言葉があるのではないか。

 実はそのあたりを読み解く足がかりとなる文章を、ワタシは一つ知っている。essa さんによる「Wiki荒らしと免疫系」である。割と単純ではあるが、『Wiki Way』に書かれている、Wiki が抱える問題とその対策を破壊する可能性すらある。

 これは大分前に書かれた文章であるが、初めて読んだとき、大変危険な文章だと思った。こんなのが広く流通したら、Wiki の普及に悪影響が出るではないかと恐ろしく思い、話題になってくれるなと願ったことを覚えている。正直に書くと、今この文章でリンクすることにも躊躇する気持ちがあるくらいである(笑)。

 essa さんは別の文章で、「Wikiってメタファが無いものなんだな」とも述べている。これは江渡さんが書かれていた、「WikiはWebと同じ部品からできている」という文章に通じるかもと思うのだ。やはり、Wiki が誰でも書き換え可能であるというだけで「性善説」という言葉を使うのはひっかかるわけである。

 このあたりを的確に切り取る言葉があればと思うのだが、残念ながらワタシは今のところそれを持ち合わせていない。


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初出公開: 2004年01月27日、 最終更新日: 2004年01月28日
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