From: 上野 To: yomoyomo Subject: Re: 今更ながら「今更ながら宗教の話で何ですが」で何ですが Date: Thu, 28 Oct 1999 06:15:14 +0900 上野です、今晩は(おはようになってしまいました) > 当方の論の要約としては大体上の通りでしょうが、ちょっと待って下さい。 > 「ひとまず結論」の段階では現世利益の話は少しも出てないのではないで > すよね。それなのに「原始キリスト教と現世利益」懐かしいですねえ、と > 引き合いに出されても困ります、話の展開上。 > > というかちょっと説明不足ではないですか。何が懐かしいのでしょう。上 > 野さんの中世時代の記憶を辿られての感慨ではないことくらいは常識的に > 分かりますが。推測するに、「今時こんなことを言ってる奴がいたとはね。 > とっくに解決済みだよ」ということだと思います(違ってたらごめんなさ > い)。 > 当方はそうした研究の進展を全く知らない人間なのでご教示いただきたい > のですが、何が「正しくは中世キリスト教ですよ」なのでしょう。現世利 > 益を追求したのが、ですか? 「原始キリスト教と現世利益」の命題を解 > 決したのが、ですか? この部分は確かにひどいですね、ごめんなさい。論として繋がっていませんでした し、混乱するだけでした。あまつさえ無用な知識のひけらかしです。 中世キリスト教が北欧諸国のバイキング達に現世利益的な甘い釣り餌でもって布教を 進めたことは割と古典的な命題でしたので、そのことを牽強付会に原始キリスト教に も当てはめたのかと邪推したのですが、それは全くの誤解でした。 当方のいささか妄想じみた勘違いでしたし、論の主題をこんなところで足踏みさせた と言う意味でも間違いでした。心からお詫び申し上げます。 > >キリスト教に代表される選民思想は確かに宗教の一面なのに、そのことについて は印 > >象付けただけで、話はなぜか教祖論に行ってしまい、宗教に必要なのは教祖では なく > >普遍性を持った方法論である。とまとめてしまう。(何故か最後の部分ではその 役割 > >を教祖が負うものだと仮定していますが) > > この部分だけで「なぜか」「何故か」と二度使われてますが、そんなにお > かしいですかね。話を教祖論にもって行こうが、方法論を構築していく役 > 割を教祖が負うことだと考えようが(勿論教祖一人だけでできるものでは > ない、とは思います)そんなにシリメツレツな展開だとは思わないのです > が。否定的なほのめかしがあるだけで、何がおかしいのか指摘がないと、 > 僕の方が「なぜ?」という感じになります。 「何故か」が二度もあるのは攻撃的ですね。ご不快でしたでしょう。 さて舌足らずだったのはyomoyomoさんの結論に関しては(宗教に必要なのは普遍性を持っ た方法論である。の部分です)非常に高く評価していると言うことです。宗教に関し て考えていないと書きましたが、とてもそんなことは言えません。深く考えた人間の 鋭い洞察です。それでなんで考えていないなどと書いたかは後で説明差し上げます。 この部分で一番目の「なぜか」は教祖論にシフトすることが「なぜ」なのではありま せん。なぜ選民思想に触れて、それを置き去りにしてしまうのかと言うことです。 > つまり、選民思想については指摘されれば「確かに宗教の一面」だと僕も > 思います。しかし、それを僕が論じる/論じない、というのは単に題材の > 取捨の問題ですよね。これをしっかり論じてないからこのあとの演繹がお > かしい、とかいった記述をしてくれないうちに「話はなぜか教祖論に行っ > てしまい」と暗に否定的な見解をされても僕は反応のしようがないのです。 とお書きになっていますが、個々の部分は 1教団の人間が持つ選民思想は危険 2無知は罪である 3彼らに必要だったのは方法論の有無を見抜く事である となると思うのですが、なんにせよその方法論は信者を選民意識に導くのではないで すか?これでは選民思想に触れたことが却ってその後の論の展開の足枷になってしま います。 第二の何故はそのまま、宗教に必要なのは方法論であるとの卓見を示されておきなが ら、その思想を教祖ごときに任せてしまうのかと言う疑問です。ステレオタイプな宗 教像を感じました。自然宗教はすべて宗教ではないことになってしまいます。 しかしこれについては組織化された宗教と限定なさっておいででしたね。失礼いたし ました。 > 「結論」が先にある、というご指摘は鋭いですね。論のおさまりをよくし > ようと型にはめたことは僕も書きながら感じていたことです。 > でも「原始キリスト教的な結論」って何のことですか? 原始キリスト教 > について当方が出した結論、のことですか? 僕の宗教観が原始キリスト > 教的、なのですか? 前者でしたら表現としておかしいですし、後者なら > 上野さんと僕の間に原始キリスト教についての認識にかなりの距離がある > ようですから適切な比喩ではありませんね。 前者の意味です。そうですね。おかしな表現でなおかつ不快です。 原始キリスト教と言う言葉は一世紀末から二世紀の初頭辺りまでの、主に十二使徒達 を中心としたローマ、ギリシャ方面への布教時代を指す言葉です。イエスの時代には キリスト教は無く(キリスト自体がギリシャ語です)、ユダヤ教の一派でした。また、 新約聖書は一世紀中葉から二世紀半ばにかけてかかれたものだそうです。当初に現世 利益が求められたのではなく、死後、後世になってつけたされたのです。 この時代はパウロをはじめとする使徒とその後継者たちがローマやユダヤ人達に迫害 に会いながら「狂信的に」布教を広げていった時代です。そこには既に不条理に対す る愛という形での方法論は存在しました。狂信性は既に方法論と結びついていたので す。 また、布教が広がった理由の一つには初期キリスト教徒たちが熱心に社会活動を行っ たからだと言うのもあります。社会活動をさして普通現世利益とは言いません。ご利 益ってもっと自己中心的な要請に対する奇跡のことですよね。 以上のことから原始キリスト教を勘違いしていると言ったのですが、瑣末なことです し、初期教団の分析は見事です。それを悲しいほどに皮相的などと言ってしまい赤面 を禁じ得ません。 ただ 『元々オウムは仏教系の宗教であるが、その狂信性については、彼らの犯罪を除いて みても誰もが認めるところであろう。しかし、ここで問いたいのだが、それが例えば 原始キリスト教のそれとどこが違うのかということだ。』 と書かれていますが、 1オウムの人間は狂信的であり、それは古典的な宗教であるキリスト教でも同じであ る。 2狂信故に本質的に宗教は危険性をはらんでいる。(同感です) 3問題は人間の生に対する方法論を持っているかどうかに帰着すべき との展開に対しては、まだ疑問が残っています。 方法論の有無は狂信のもたらす危険性に関与し得ないと思うのですが。 > >この回のコラムで辛いなと思ったのは思考の不徹底に関してです。マルクスから 宗教 > >を語る気持ちは解りますが、その後に展開された数多くの魅力的な宗教論(ホ カー > >ト、エリアーデ、レヴィ・ストロース、佐々木宏幹、つい先日おなくなりになっ た中 > >村元等など)を何も読んでいない事が見て取れますし、雰囲気だけで論じている ので > >細かな間違いも目立ちます。突き詰めていない思考の甘さは論の展開の浅薄さに 繋が > >るのではないでしょうか。 > > ご明察です。上野さんが列挙された人達の文章は読んだことがありません > (ストロースは流し読みした記憶があるようなないような。まあ、同じこ > とですね)。不勉強の謗りは免れないでしょう。 宗教について考えていない、思考の不徹底などと言う暴言を吐いたことを深く恥じて おりますが取り戻しのつき様がありません。 マルクスに関しての深い理解を読み、そこからの踏み込んだ宗教感を期待したのです が、これは当方が論を読み違えていたことの所産です。 論全体の趣旨はオウムもまた確かな宗教だと言う指摘ですし、むしろ冒頭で宗教論の 立場からの意見は切り捨てているわけです。 おっしゃる通り、論の展開には関係の無い難癖です。 > >しかし宗教を語ることの難しさを感覚的に捕らえることができなかったのなら、 流行 > >り物だからといって手を出さないでほしかったと言うのが正直なところです。 > > 当方の論理展開に難がある、といった指摘には僕も認めるなり反論するな > りできるのですが、「宗教を語ることの難しさを感覚的に捕らえることが > できなかった」というのは、僕の感覚の問題ですよね。それって上野さん > が云々できることですかね(笑)。 > 僕は『実感』として「宗教を語ることの難しさ」に苦心しながら乏しい知 > 識を整理して書いた覚えがあるのですがね。しかし、これは飽くまで僕の > 主観であって、そんな苦労話などどうでもいいことです。 > 論じられるべきは結果として公開された文章ですから。それを論破される > のはよいのですが、僕の文章が稚拙だからといって僕の感覚にまで口を出 > さないでほしかったというのが正直なところです。 余計なお世話ですか、失礼しました。実を言いますとここだけはまだ良くわかりませ ん。整理がついていないのですが、批評とはそもそも余計なお世話な物でしょう。文 の良し悪しだけでなく、その背景に触れられるものなのではないのですか。 いや指摘しきれていませんので、その点に関しては謝罪しますが。 > 勿論上は議論の本筋とは関係ないことなのですが、上野さんのメールを読 > んでもですね、上野さんの僕の文章に対する評価ははっきり伝わるのです > が、その根拠が全然見えないのですよ。当方の文章を「雰囲気だけで論じ > ている」と評する割には。 > つまり、「原始キリスト教に対する誤解はただの無知」「皮相的な誤読」 > と書かれてますが、具体的にどの記述が誤読なのか皮相的なのか指摘がな > い。それじゃあ僕も反論のしようがないし、認識を改めようがない。 > 「辛いなと思ったのは思考の不徹底に関してです。」お説の通りなんでし > ょう。「その後に展開された数多くの魅力的な宗教論を何も読んでない」? > そうですよ。読まれている上野さんのような方をソンケーします。でもね、 > 今問題なのは僕の文章でしょ? 読んでないから駄目なわけ? そんなわ > けないでしょ。僕の文章自体が駄目なんでしょ。それなら一つでも例証を > 挙げないと。 > 僕のリプライが反論にならず「これどういう意味?」という文章ばかりに > なっているのはそういうことですよ。何の具体的な論証なしに批判され、 > ついでに自分が書いた覚えもないことがトピックみたいにカッコ書きされ > ても困るのです。 > > 「意味不明」「良く分からなかった」と書いておきながら、「宗教に関し > て突き詰めて思考したことが無い様にも読めてしまいます」「手を出さな > いでほしかった」とまで書けるところがすごいですね。いやお説の通りな > のでしょう。それならその間を埋める具体的な批判が欲しいのです。 > > 「AからBという結論を出してるが、それにはCまで押さえてないとだめ > だよ」とか「例としてD、E、Fを挙げているがEに関してはそんな史実 > はない」とかね。上野さんほど宗教に関する知見のある方ならいざしらず、 > 「宗教に関して突き詰めて思考したことが無い様」輩とまで見抜いた人間 > には幾らなんでも不親切でしょう。 安易に印象的にしか読めない批評をお送りしてしまったこと反省しております。指摘 を整理して送らなくてはならないこと。具体性を伴わなくては意味の無いことなど痛 感させられました。勉強させていただきました。 大上段に構えて公表、解体、批評の自由を謳ってきましたが、到底そのレベルに達す るものではありません。勿論この受け取られたメールを晒し者にするもどうも、権利 はyomoyomoさんにありますが私自身にあのような口上を述べるだけの力量はありませんで した。 yomoyomoさんにはあのような至らない批評に付き合っていただいてまことに申し訳無く、 感謝しております。有難うございました。 それでは。