yomoyomoの読書記録(2002年下半期)


楳図かずお「イアラ」(小学館文庫)

 これは前にも書いたことなのだが、僕の実家には楳図かずおの70年代以降の主要な作品が大体揃っている。現在はほとんどマンガを読まないので現役のマンガ読者とは言えないのだが、ともかく楳図かずおは今でも好きだ。

 その彼の作品の中で、読みたいと思いながら読めずにいたのが「イアラ」である。何故かこれだけ文庫本などになってなかったのだ。だから本屋でこれを見かけたときは長年の夢がかなってすごく嬉しかった。

 端的に言ってしまえば、「イアラ」はいわゆるホラー漫画ではない。人類の歴史を辿る短編を積み重ねることで一つの物語(謎)を追うという「火の鳥」タイプの作品と言える。文庫本で一冊だから緻密な展開こそないものの、常識性を突き崩し、人間心理の奥に潜むものを露にする楳図かずおらしさは堪能できる。ただ解説で二階堂黎人が書くような「氏の作品の中でも一、二を争う大傑作だということは明白」ということはない。解説文のご祝儀だということは分かっているが、それは大げさである。もちろんこの文庫本だけでなく、イアラの名の元にまとめられる連作をすべて読めばまた評価は上がるのかもしれないが。

 また本作の評価とは少し違うが、二階堂黎人の解説にも引用されている、綾辻行人による「子供であること」という楳図かずおのテーマ性についても本作を読んで少し引っかかった。楳図かずおは一貫して子供を主人公にしているようであるが、実はそうではない。特にこの「イアラ」が書かれた前後には「おろち」という傑作もあるし、アダルト向けの短編も多い。初期作品が子供を主人公にしているのは、作者の年齢的な部分と対象読者の関係もあったろう。しかし、この「イアラ」「おろち」あたりを最後に、「洗礼」「漂流教室」「まことちゃん」「わたしは真悟」…と楳図かずおは迷いなく子供を主人公に据えるようになる。実はどこかに氏の転回点があるようにも思うのだが、当然ながら僕は当時生まれてもおらずリアルタイムの読者ではないので、後付けの理屈に過ぎないかな。


カート・ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」(ハヤカワ文庫)

 この年になってようやく読んだのが恥ずかしくもある。

 存分に種を明かすように見せながら、しかも簡単には尻尾を掴ませない筆致はヴォネガットならではである。捕虜体験、ドレスデン爆撃という紛れもなく著者の自伝的内容を多く含む本作においてもそれは変わらない。「時間のなかに解き放たれた」男を主人公とし、物語は時間を自由に横断するが、そうした作品につきものの作者の力量をひけらかしや、読者をけむに巻くようなところはない(主人公が新婚のベッドと捕虜収容所の病院を行き来する場面はやはり見事である)。

 ただ前半部は読んでいて少なからず困惑したのも確か。それは主人公の第二次大戦後のブルジョア的生活の描写もあるし、その中での主人公のぼんやりとして主体性のない感情表現もあるし、また連呼される「そういうことだ」と言いまわしが鼻についたというのもある(特定表現の連呼はヴォネガットの作品では珍しくないが、これは明らかに過剰である)。

 しかし、その戸惑いも後半を読み進めるうちに納得がいく。常に独特のユーモアを見せるヴォネガットが、ここでは正面からまっとうに核心に触れている。

この小説には、性格らしい性格を持つ人間はほとんど現れないし、劇的な対決も皆無に近い。というのは、ここに登場する人びとの大部分が病んでおり、また得体の知れぬ巨大な力に翻弄される無気力な人形にすぎないからである。いずれにせよ戦争とは、人びとから人間としての性格を奪うことなのだ。

 これだけ読むとありきたりに思えるかもしれない。しかし、これ以外にどう表現しろというのだ。そこまで分かると、この作品の小説としての面白さとともに、深い悲しみを感じ取ることができる。「深い悲しみ」とはこれまたありきたりであるが、凡人である当方にはそうとしか表現のしようがない。

 トラルファマドール的価値観からすればこういう解釈は無効なのだろうが、結局のところ主人公はかの大戦中に「時間のなかに解き放たれた」からこそ、その後の時間旅行を通して一種痴呆的にしか振舞うことができなくなったのではないか。作者が、いや正確にはこの作品中の作者が、「われわれは永遠に生きつづけるのだという考えが、もしかりに真実であるとしても、わたしはそれほど有頂天にはなれない」と書くのはそうしたことだと思う。


内田研二「成果主義と人事評価」(講談社現代新書)


島朗「純粋なるもの −トップ棋士、その戦いと素顔−」(新潮文庫)


楳図かずお「14歳」(小学館文庫)


ディック/ブラッドベリ他「20世紀SF(2) 1950年代 初めの終わり」(河出文庫)

 何度も書いていることであるが、当方はSFについて無知であり、ここ数年それを後悔することが多い。そういうわけで初心者である当方には、本書のような日本独自編集のアンソロジーはありがたい。とりあえずはということで1950年代編を選んでみた。当然ながらディックなど既に作品を読んでいる作家もいるが、ありがたいことにというか情けないことにというか、本書に収録されている作品はすべて初めて読むものであった。

 本書を一通り読み、ため息をついた。前述の後悔の念は強まるばかりだ。こんなものが今から凡そ半世紀前に当たり前のように(でもないのかもしれんが)書かれていたとはどういうことだ。これを読んだ人間の一部は確実に人生が変わった(狂った?)はずだ。一体自分はこれまでこれらを読まずに何をやってきたのか。これらのうちのいくつかでも高校生のとき、いや大学生のときに読んでいれば現在と大きな違いがあっただろう。

 ストーリーテリングを重視したものが選ばれているようで、それは当方のような読者にとってありがたいことである。シェクリイ、シマック、コーンブルース、ベスター、ブリッシュ、スタージョン、そしてポール・アンダーソンの作品が特に楽しめたが、それ以外のものも仕掛けが古くなったりしていたり、個人的な好みから少し外れるというだけで優れた作品ばかりである。

 ただ本書のサブタイトルにもなっているブラッドベリの「初めの終わり」はどうしたものか。もっと優れた短編があるはずだが。本書の解説でも書かれているように各巻毎のテーマに則った結果なのだろうし、こういうのは誰が誰の何を選んでも文句が出るものなのだろうが。

 しかし何より特筆すべきはリチャード・マシスンの「終わりの日」である。現在通勤電車に揺られる時間が当方の読書時間でもあるのだが、この短編の最後のところを読み、唐突にこみ上げた涙を周りに悟られないようにするのに難儀した。当然個人的な事情もあるのだが。


斎藤美奈子「紅一点論」(ちくま文庫)

 「妊娠小説」に続いてようやくこの本を読む時間ができた。とても楽しみにして読んだ本だったが、「妊娠小説」より読後の後味は良くなかった。しかしこれは「紅一点論」が前作より劣っているということではない。むしろ本作に至り、フェミニストとしての著者の立場がより明確になっているし、またそれにより読みものとしての面白さ、批評としての精度が損なわれているわけでもない。

 それなら何故ということになるのだが、扱っている素材の問題はあるかもしれない。ワタシは「ガンダム世代」に属するのだろうが、最初のテレビシリーズを少し観たくらいでそれ以降はまったく追っていないし、エヴァンゲリオンやセーラームーンに至っては元から興味がなく観ていない。しかし、本書で展開される「紅一点論」は門外漢である当方をも納得させるものがあるし、第一前作で取り上げられた日本文学作品にしても、そのすべてを読んで評価を下していたわけではない。確か前作のあとがきに、担当編集者が「ここ笑えます」「ここ笑えません」という基準でダメだしをしたという話が書かれていたと思うが、そうした意味での笑える度数は少し低めかもしれない。

 やはり彼女のフェミニストとしての主張が、フェミニズムでないワタシの痛いところを突いたという意識があるのかもしれない。特にワタシが素直に好きな宮崎駿作品に対する批判は鋭く、ファンとしては唸ってしまう。「千と千尋」の反動か、今ではいろいろな批判も出ているが、こういったアングルでの批評は彼女がはじめてだったのではないだろうか。

 アニメ・特撮ものにおけるヒロイン像の分析と、女性の偉人達がその伝記本によりいかに恣意的な書き方がされてきたかという分析が並ぶのが本書の本書たる由縁であり、フローレンス・ナイチンゲール伝を『ナウシカ』、マリー・キュリー伝を『セーラームーン』、そしてヘレン・ケラー伝を『もののけ姫』と断定していると書くと何と突飛な分析、いい加減な決め付けかと思われるかもしれないが、まあそれ以上は実際に読んでみてください、となるわけである。


山形浩生「新教養としてのパソコン入門 コンピュータのきもち」(アスキー)


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初出公開: 2002年06月17日、 最終更新日: 2002年12月25日
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