歴史は性懲りもなく繰り返すが、何もかもが懐かしいなどとは思わない


 今月もインターネットマガジンを編集部よりいただいたのだが、最新号の巻頭インタビューはティム・バーナーズ・リーのインタビューだった。

 彼クラスの偉人となると、背負うものが大きかったりして喋ることに新鮮味がなくなるし、インタビュアーもあまり突っ込んだことを聞かなくなるのでそう面白いものでもないのだが、彼のインタビューはセマンティックWebという現在進行中のプロジェクトについて語っているだけまだ現役感があった。余談だが、彼は下から撮ったアングルがジョン・ライドンに似ていると以前から思うのだが、そんなことを考えるのはワタシだけか。

 さて、このインタビューを読みワタシがぼんやり思ったのは、彼が語るようなセマンティックWebがそのまま実現することはおそらくないだろうなということ。

 こういうのを書くと一部から反発を食うだろうしバカにもされるだろうが、実際そんなところだから隠してもしょうがないと考えをもう少し続けると、ティム・バーナーズ・リーらの構想は正当性があるし、目指すべき方向性は間違っていない。しかし、彼らの実現しようとするウェブは立派過ぎるのだ。セマンティックウェブを構成する技術で見事に階層図が書けてしまう。しかし、そのような伽藍が完成するまでにウェブはとっくに今ある形と変わってしまうだろう。もちろんその変化にまったく対応できないと言いたいわけではないけれど……

 最近よく Web 2.0 という言葉が使われるが、例えば Web 2.0 はセマンティックウェブと同義ではない。Wikipedia の Web 2.0 ページから引用すると(このページには "The neutrality of this article is disputed." の警告があるのに注意)、

Web 2.0 というフレーズが使われるようになった初期は、それはセマンティックウェブと同義だった。この二つの概念は似通っており、補完的な関係にある。

とあり、大枠同じ方向を向いているとは言える。しかし、「初期は同義だった」と断っているのを見て分かる通り現在は同じものを指してはいない。

 これは当方の私見だが、Web 2.0 で括られる技術にはとにかくどんどん実装してサービス提供することを第一に考える実用性重視を感じる。はじめ del.icio.us を知ったときは、その「タグ」の仕組みがなんとも原始的というか、行き当たりばったりに思えたものである。しかし、それが今ではソーシャルブックマークや Folksonomy といった言葉でまとめられ、他サービスとの連携もなんとなく実現している。理屈や連携は後からでも何とかなるものなのかもしれない。


 そうした意味で、ティム・バーナーズ・リーのインタビューの後、「RSSは新たな時代の入口にすぎない セマンティックWeb入門」という平川泰之氏の原稿が続き、そして「RSSメディアビジネス最前線」という特集が来るインターネットマガジンの構成は少し皮肉な感じもした。

 件のインタビューでティム・バーナーズ・リーは RSS について以下のように語っている。

現在のRSSは主に、ニュースの伝播といったことに利用されています。RSSのバージョン2.0はRDF互換ではないと細かいこともありますが、セマンティックWebとの関係で言えば、RSSはデータのノーティフィケーション(通知)として活用されていくでしょう。

 やはり RSS 2.0 が RDF 互換でないことには触れずにいられなかったのは、略語が同じ RSS でも RSS 1.0(RDF Site Summary)と RSS 2.0(Really Simple Syndication)とでは成立過程や背景思想に違いがあるからであり、また日本と異なり海外では RSS 2.0 が優勢だからである。

 RSS 2.0 の主導者である Dave Winer については毀誉褒貶あるが、清廉潔白さより下世話でベタベタ純粋技術者タイプの人たちにウケの良くないかもしれないが普及重視の姿勢は、確かにセマンティックウェブ構想の立派さとは噛みが悪いように思える。しかし、歴史において勝利してきたのは清廉潔白より下世話でベタベタのほうが多いのではないか。

 インターネットマガジンの RSS 特集でもページが割かれ、遂に iTunes 4.9 から正式サポートされたポッドキャスティングなど Dave Winer の「下世話でベタベタさ加減」の真骨頂だと思う。

 ここまで考えて、これはいつか来た道なのかもと思った。ウェブで利用されるマークアップ言語 HTML は Hyper Text Markup Language の略だが、このハイパーテキストという言葉はティム・バーナーズ・リーではなく、Ted Nelson が発明したものである。そのテッド・ネルソンから見れば、HTML は「ハイパーテキスト」の名前に値しない粗悪品なのかもしれないが、彼のプロジェクト Xanadu は究極の vaporware であり続ける一方で、ネルソンも「WWWのレベルの低さには失望しているけれど、私がずっとやろうとしていたことが実現しつつあるのは、本当に驚きだ」と認めざるを得なかったのも確かだ。

 メタデータに関しては、単なるシンジケーションに留まらず API まで対象範囲の Atom がどうなるかというのがあるのでまだまだ未来は流動的だが、ウェブサイト作成がブログや Wiki を含めた CMS ツール前提になり、それらによる Permalink+メタデータ(RSS、Atom)+タグの組み合わせが基本的な枠組みとなり、なんとなく次代のウェブの形が決まってしまうことで、セマンティックウェブという言葉がかつての「ハイパーテキスト」のようなことにならないかと思うのだ。


 「歴史は繰り返す」といえば、先週ブログと Wiki の違いに関係してZopeジャンキー日記に「ブログはフロー、Wikiはストック」というエントリが書かれ、その反響にモヒカン族 otsune 氏が一年しか経っていないのにストック・フロー話が揮発していたことに驚き、反応するということがあった。

 「一年」というのは、当方が第一回Wikiばなのために書いたポジションペーパーを指しているわけだが、ワタシも最初 mojix 氏のエントリを読み、それがどんどんブックマークされるのを見て正直驚いた。

 しかし、それは嫌な感覚ではなかった。自分が書いたことが何らかの形で他の人に受け継がれる……と書くと大げさだが、そうした水脈を確かめられてよかった。あと一点付け加えておくと、mojix 氏のエントリを指して「m.e.s.h.メソッド」などと評するのはそれこそ「言いすぎ」であり、フェアではないと思う。

 mojix 氏の「はてなブックマークにおける「ブログはフロー、Wikiはストック」 / ビフォー・アフター的な歴史感覚」もあわせて読んでほしいが、ストック・フロー話にしてもワタシが最初に言い出したことではない。

 otsune 氏もリンクしているが、ただただし氏の「blogとWikiは個人サイト構築の両輪」という表現にはとても感動したのを覚えているし、当方も折に触れリンクさせてもらっている。

 ワタシが感動したのは、たださんの言説がその当時の状況をピッタリ言い表していたから、ではない。むしろはじめて読んだとき、いささか無謀じゃないかとすら思ったものだ。思い出してほしい。この文章が書かれた2003年初頭は国内の企業によるブログサービスといえばはてなダイアリーがベータサービスをはじめたばかりで、ここまでブログが一般的になるとは思わなかった。ましてや Wiki など『Wiki Way』は刊行されていたが認知度はまだ低かった。しかしたださんは、それらを「個人サイト構築の両輪」とこともなげに言い切ったのである。ああ、この人にはその未来が見えているのだな、と興奮を覚えたわけだ。


 しかし、久しぶりに自分が書いたポジションペーパーを読み直すと、明らかに間違った言葉を使っているのに気付いたり、当時はこれをやろうとしていたのにできなかったなと苦い想いもしたりする。

 例えば当方は件のポジションペーパーで Content Mining という言葉を使っているが、これは適切な言葉でないかもしれない。当方は「コンテンツの洗練、編集による質向上」といった意味で使ったはずだが、実際には「コンテンツの抽出」という意味になるだろうから。

 余談だが、どうして自分が Mining にそういう意味があるかと思ったかというと、The The のファーストアルバム『Soul Mining』の邦題が『魂の彫刻』で、それが Mining という単語を知ったため意味を取り違えていたようなのである。

 閑話休題。上に書いた「当時はこれをやろうとしていたのにできなかった」というのは実は mojix 氏のエントリにも通じる話で、もっとワタシなどが頑張って Wiki の素晴らしさを啓蒙する文章を書けていたらよかったのにと思うのである。

 最近それを痛感させられたのは、当方のエントリを受けたふしはらかんさんの「不自由な自由さとWiki」を読んだときである。件のポジションペーパーを書いた当時から考えてきたが形にできなかったことを思い出したわけである。

 かんさんが書かれていることは、『Wiki Way』にも対応する記述がある。

Wikiのコンセプトは全体的にとてもオープンなのですが、(初めのうちは)構造化されていないため、この種の手引きが、大抵の初心者には必要なようです。大学におけるケーススタディ(11章)と企業におけるケーススタディ(12章)のいずれも、新規ユーザを課題指向の環境下で、ある程度指導する必要性を強く示唆しています。通常は管理者や他のユーザによる、参考となるコンテンツが既にありますから、公に議論を行う場では、その必要性があまり目立たないかもしれません。しかし、利用開始間もないWikiは、作家におなじみの、恐ろしい「空白ページ」症候群を引き起こしやすいのです。(81ページ)

 つまり何もない Wiki にユーザを放り込んで、さあコラボレーションだと言ってもユーザは途方に暮れ、正に「空白ページ症候群」状態になるわけである。

 『Wiki Way』では手を変え品を変えそれに対する方策を説いている。ページテンプレートに必要な機能(検索機能など)へのリンクを入れて利便性を高めるというのが一つだし、やはり Wiki にも全体の主導者が必要で、そうした人(達)が規範を見せることで他のユーザも続けるようになる。

 もちろん『Wiki Way』以後に分かってきたことがある。Wiki エンジンの作りによりある程度ページ構成が定まる場合がある。参加者の数により規範のあり方が変わってくることも Wikipedia を見れば明らかである。上に書いたことを含め、原典の思想をもっと現状に即した形で説きながら Wiki 利用者のためになる文章をもっとワタシが書ければよかったのだ。

 Content Mining(?)の話だってそうだ。もちろん Wiki はただ情報を集積するだけのリンク集のようなページにも使える。しかし、いくつか Wiki 記法を使ううちに「Wikiは記述フォーマットが制約されているようで、実は限りなく自由に情報を構造化できる」に気付き、例えばページ分けの仕方、検索機能、逆リンクといった機能利用、そしてWiki全体構成の見直しまで含めた……というように「学習」する過程をもっと文章化できていればと思うわけだ。

 しかし、もうそれをワタシが気に病む必要もない。例えば、焚書官の日常 (4.4.1)の「wikiとblogを両方使うにはどうしたらいいか。」のような問題意識を一歩進める良質な文章が書かれているし、ひとつ宣伝しておくと Web Sites Expert における露払いに続き、Software Design においてWikiばなプレゼンツのWiki連載がはじまる。しかも全十回の連載になる予定である。Wiki ばな関係者(当方は一回参加しただけなのでそれには入らない)の尽力により、ここまで来たのである。


 さて、以上で終わろうと思っていたのだが、ITmedia に「Joiこと伊藤穰一氏、ブログの「今」を語る」という非常に面白いインタビューが掲載されており、ちょうど m.e.s.h. なんて言葉を久しぶりに引き合いに出したというのもあり、これも「歴史は繰り返す」つながりということでついでに取り上げておく。

 これはテクノラティジャパンの始動に合わせた株式会社テクノラティジャパン取締役の「ブログの伝道師とか書かれると困っちゃうんだよね。そんなこと言ってないのに」と笑うJoiこと伊藤穰一氏のインタビューなわけだが、このインタビューを読み彼の言葉遣いの巧妙さに唸らされた。

 モヒカン族 otsune 氏に「Joi狩り担当」などと煽られて当方としては大変迷惑なわけだが、一応歴史関係は正しておきたい。

伊藤 「ブログを広めよう」と2002年にJapan Blogging Association(JBA)を武邑光裕氏、飯野賢治氏などと立ち上げたんですが、2ちゃんねるとかでたたかれたんですよね(笑い)。

 批判の論拠としては、「(ブログって)ただの日記じゃないか。また伊藤がさも自分が発明したかのようにうんぬん」であったり、「日本とアメリカは違う。(日本人は)閉鎖的でブログなどは普及しない」といったようなことなどでした。確かに当時、日本の日記サイトで使われていた技術、例えばはてなのリンク分析の機能などは、はっきり言ってブログが持っていた機能より高度なものでしたから、その意味では批判の中にも真実はありました。

 個人的に JBA が嫌だったのは、露骨に「徒党を組む」感覚が閉鎖的だったところ。もちろん彼はそんなことない、オープンにするつもりだったと言うだろうが、海外生活が長いのなら、例えば Dave Winer や Evan Williams がブロガー協会なんてものを作ろうとしなかったかその意味を考えてほしかった。あんたが率先してムラ社会作ってどうするよ。JBA については同じくモヒカン族加野瀬未友氏が加野瀬メソッド炸裂の文章を書いてくれるだろうから期待したい(追記:「再びJBAについて」が早速公開された。必見!)。

 さて上でワタシは「彼の言葉遣いの巧妙さ」と書いたが、それは彼がこのインタビューで執拗に繰り返す「ニホン(ジン)は閉鎖的」というメッセージであり、それについてはモヒカン族 otsune 氏も触れているが、上に引用した中での「日本とアメリカは違う。(日本人は)閉鎖的でブログなどは普及しない」という発言はどうなんだろう。ニホンジンが閉鎖的だからブログが普及しないと言った人いましたかい? 勝手に架空のニホンジンに自分のメッセージを託してやいませんかい?

 当時の批判は、外面的な機能性では似たようなものがあるのにさも新しいもののように言うなということで、その中には tDiary のツッコミ機能などの「コミュニケーション機能」も含まれており、サイト間の言及を通したコミュニケーションならそれこそハイパーダイアリーとか言っていた頃からあったわけである。

 もちろん CMS としてのブログツールの優秀性や RSS(最初とつながった!)の可能性などは後から見えてきたことであり、そうした批判がすべて正しかったわけではないが、あと「はてなのリンク分析の機能」とあるが、あの当時はてなダイアリーはベータサービスも開始しておらず、例として挙げるならそのはてなダイアリーがリンク元表示機能を含め参考にした tDiary を挙げるべきだろう。さすがは当時、その作者モヒカン族ただただし氏について "This guy REALLY hates me." と吐き捨てた恨みは忘れていなかったか、というのは穿ち過ぎかな。

 というか「はてな」だけじゃ何のサービスか分からないだろう。こういうのをちゃんと直すのが編集者の仕事だろうに。


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初出公開: 2005年07月04日、 最終更新日: 2005年07月08日
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