黙ってソースコードを見せな

著者: Eric S. Raymond

日本語訳: yomoyomo


以下の文章は、Eric S. Raymond による Shut Up And Show Them The Code の日本語訳である。

本文冒頭で触れてあるとおり、本文は Richard M. StallmanSlashdot への投稿に対する反論として1999年6月28日に各紙に投稿された文章である。

「フリーソフトウェア派」RMS の十年一日のごとき不平について、「オープンソース派」ESR の業を煮やした反論というところだろうか。ESR の「自由」について語りたがらない姿勢や、Slashdot との関わり合いについては、hotWIRED に掲載されたインタビューを参照いただきたい。

本翻訳文書について、小野剛さんから誤訳の指摘をしていただきました。ありがとうございました。


今日掲載された Slashdot への投稿によると、我々が「自由」「原理」「コンピュータのユーザが享受する権利」について語るのを避けているので、RMS はオープンソース運動に距離を置いているとのことだ。

彼の言っていることは正しい。我々は確かにそれを避けている。でも、それは「自由」や「原理」や「権利」やらに関心がないからじゃないんだ。僕自身について言わせてもらうと、これまでに僕の言説を聞いたか、僕が書いた第一第二の修正条項を読んだことのある人なら誰でも、僕が自由と権利について情熱的で多弁だと分かってくれるだろう。それこそ RMS のように、聴衆に自由や権利やらの話が受けが悪いときでさえ、僕はそれらを擁護しているんだ。他のオープンソース運動の支持者にしても、適当だと判断すれば「自由」や「権利」といった言葉を使うことに関して、僕より臆病なようには全く思えない。

しかし、「適当だと判断すれば」というのが非常に重要な制限なんだな。オープンソース支持者が RMS 言うところの「自由」を語りたがらないかもしれないのは、二つの異なる理由があるためだ。つまり、彼の目標に対し意見があわないか、もしくはそうすることに効果がなく、間違った戦術だと判断するかの二つがある。

その差異は重要で、これが RMS が我々の意図について誤って説明しているところである。実際には、OSI(そしてオープンソース運動全体)が RMS が持つような信条でもって人々を慎重に取り込むつもりなのに、彼は FSF と OSI が原理的に大きな亀裂があると信じさせたいんだ。

オープンソース・イニシアティブは、RMS の目標に従属するものでも敵対するものでもない。とはいえ、僕のいっていることをそのまま鵜呑みにするのではなく、OSI のウェブサイトにある主張文、特に「オープンソースはフリーソフトウェアのマーケティングプログラムである」という FAQ の中の項目をみてね。

確かに OSI の協力者の中には、時折 RMS の目標や原理主義のいくつかについて論争する人達がいるのは本当だ(そして、その中に僕も入っている)。しかし、OSI は大きなテントのような組織なんだ。つまり、我々は RMS の原理主義を非難したことなんか決してないし、これからだってない。だって我々にはその必要がないんだもの!

OSI と FSF の間における真の意見の不一致、「オープンソース」や「フリーソフトウェア」について話す人達の不一致の根本にあるのは、原理主義に関わるするものではない。それは戦術やレトリックの上位に関わるものなんだ。オープンソース運動は、RMS の理想を拒絶する人々よりも、彼のレトリックを拒絶する人達により主として構成されている。

これは正当なことだろうか? まあ、最近の14ヶ月の間に起こった、プレスやメインストリームの理解の180度転換を考えてみなよ。我々の種族に属する多くの人達が「フリーソフトウェア」とかつて呼んでいた、同じライセンスの同じソースコードを「オープンソース」の旗印のもとに推し進め始めたのだから。

我々がかつて無視され、しりぞけられていたのが、今では称賛され、尊敬されている。かつて「フリーソフトウェア」を気違いじみたアイデアだとしりぞけていた同じプレスが、今では熱心に「オープンソース」を賛美する記事を書いている。またかつて RMS を「共産主義者」としりぞけた同じ企業の大立者が、オープンソースの開発に金と労力をつぎ込む準備をしている。市場のシェアも、人心のシェアも両方ともに、昨年の一月からすれば突飛な空想の産物に思えたレベルにまで急上昇したんだ。

考えを変えたオピニオンリーダと重役連中の全てが、GNU 宣言に突然純粋な光を見たのだろうか? いいや、そうではなく、彼らの改宗を説明するには、オープンソース支持者の功績に目を向けないといけない。

OSI の戦術はうまく作用している。レッスンの簡単な段階だ。つらいことに、FSF の戦術はうまく作用してないし、これまでだって決してうまくいってなかった。もし RMS のレトリックがハッカーコミュニティの外側で効果を上げていたなら、我々は現在の地点に5年か10年早く辿り着いていたし、OSI なんてまったく必要なかっただろう(そして僕はコードを書いているだろうね、そっちの方がこんなことより僕にはうまくできるんだから…)。

OSI の誰も、プログラマーとしての RMS の優れた能力や、他のハッカー達を優れた仕事を行うよう仕向ける非凡な力を軽んじはしない。Emacs や gcc や GNU コードベースは、確実に我々のツールキットの基礎を成していて、文化遺産なのであり、そのいずれをとっても RMS は賞賛に値する(これが、昨年の LinuxWorld で、「RMS がいなかったら、私達のうち誰一人として、今日ここにこのようにいることはなかったでしょう」と述べ、彼に向けたスタンディングオベイションを促した理由なんだ)。でも、メインストリームに対する伝道師としては、15年の長きに渡り失敗してきたんだ。

我々ハッカーの皆に、そのところをはっきりしておくのは重要で、何故なら RMS のレトリックは、我々のような人種にとってとても魅力的だからだ。我々ハッカーは、「原理」や「自由」や「権利」なんかの訴えに対し、簡単に共鳴してしまう思想家であり理想主義者なんだ。彼の計画に少しばかり同意してないときでさえも、我々は RMS 流のレトリックが通用したらいいなと思ってしまう。通用すべきだ、と考えてしまうのだ。我々のように興奮しない人々の 95% がそれを無視することに対し、我々は困惑し、信じない傾向がある。

だから RMS が、「コンピュータのユーザの権利」について語ることを強調すると、彼はかつての失敗を繰り返すことになる、危険で魅力的な誘いを我々にしかけているんだ。我々は拒絶すべきなのだが、それは彼の原理が間違っているからではなくて、ソフトウェアに適用されるそうした類の言葉が、我々ハッカーのみを信じさせてしまうからなんだ。実際には、彼の言葉は我々の文化圏外の大部分の人々を混乱させ、反感を与えている。

RMS の最良のプロパガンダは、常に彼のハックでもってなされてきた。それは我々全てに向けられたものだ。つまり、我々少数の種族以外の世界にとって、我々のソフトウェアの優秀さは、原理を抽出する大仰なアピールの総量よりも、公開性と自由にとってずっと説得力のある論拠になっているんだ。そこで次回 RMS か、もしくは他の誰であっても、「自由について語れ」と促すなら、僕としては「黙ってソースコードを見せな」と応えるようおすすめする。


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初出公開: 1999年07月20日、 最終更新日: 2002年01月31日
著者: Eric S. Raymond
日本語訳: yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)
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