Wiki病 - 新種の病気

著者: Mr Ed

日本語訳: yomoyomo


以下の文章は、Mr Ed による Wikiphilia - The New Illness の日本語訳である。


Wiki病(Wikiphilia):Wiki をインストールして利用することで、グループが直面するどんな問題も解決できるという不合理な信念を特徴とする精神病。この妄想症は、1995年に最初に確認されて以来、発症数を増し続けている。Wiki病は必ず二つの段階を見せる - インストール後の短い間、Wiki の可能性を熱狂的に期待する第一段階と、その期待を Wiki が実現し損ねているのを否定するように徐々に移行する第二段階である。

Wikiとは何か?

Wiki は、ハイパーリンクにより接続されるテキストベースのウェブページ群をユーザが作成できるウェブアプリケーションである。Wiki の本質的な特徴は以下の通り。

Wiki のコンセプトは Ward Cunningham によって発明されたもので、彼による最初の Wiki は現在も健在である。本文における議論を行うのに、この Wiki を「参考実装」として採用することにする。

基本的な Wiki のコンセプトが、非常に多くの開発者やベンダにより拡張されてきた。Wiki の派生版はそれでも上記の四つの特徴、もしくはそのバリエーションを備えているが、たいていの場合オリジナル Wiki のコンセプトにある多くの欠点を補うことを目的とする追加機能も備えている。これらの派生版の中には、コンテンツ管理システムの方向に向かっているものもある。そうした派生版に垣間見えるオリジナル Wiki の欠点の度合いは、オリジナル Wiki の機能セットへの忠誠度に比例する傾向にある。

Wiki が適用可能な用途は多いが、大雑把に二つのカテゴリに分類される - 情報リポジトリとコミュニティの議論の場である。Wiki が柔軟であるというのは、裏返すと Wiki はいかなる特定用途にもあまりうまく対応できないということだ。Wiki に熱狂する人たちは仰々しくものすごい勢いで主張するにも関わらず、Wiki の潜在的価値は往々にして理解されていない。というのも、その可能性の達成は、Wiki のユーザ気質に関して疑わしい前提に基づいているからである。そしてその前提は、それがしばしば失敗することの原因でもあるのだが、それには後で触れる。

コミュニティとしてのWiki

創発的設計(Emergent Design)を支持する根拠レスな主張を彷彿とさせるが、c2.com Wiki のユーザは、自己正当化のために Wiki が見たところコミュニティのホストをうまく務める理由に、以下を主張する

c2.com で Wiki を閲覧し、上記の観念的な主張と稼動している Wiki の現実の間にある途方もない落差を観察するのは、楽しくもあり悲しくもある。上記の表面的な Wiki の特徴は、実はどれも現実には存在しないものなのだ。

平等主義

あらゆる意見があらわれるという主張が有効であるのは、単に誰かに喋る機会を与えるだけでは十分ではない。そうした意見が熟慮されるように、耳を傾けられなくてもならないのだ。誰もが Wiki ページに意見を追加することはできるが、誰もがそれに同意も削除もできる。よって、どのユーザも単に削除するだけで意見を消せる場合、Wiki がすべてのユーザに意見を表明する同等の機会を提供しているという主張は空虚といえる。確実に投稿が生き残るようにするために、ユーザはそのコンテンツを監視し、他の誰かがそれを削除したら再度挿入しなくてはならない。このためにライティングボットに頼るユーザもいる。つまり、Wiki のコンテンツは、投稿を保護するのに時間やリソースを要することになりやすいのだ(なぜそこまでして必要な時間やエネルギーを消費するのかは、誰にも分からないが)。

総意

Wiki ページのコンテンツは、最後の編集を行った人により決定される。これがそのコミュニティの総意と一致するかは(というより、何かしら総意自体存在するのかも)疑わしい。たとえページ内容に変化が少ないとしても、それは異なる意見を持った人が、コンテンツをそれ以上保守する競争に携わる余裕がないということを示しているだけかもしれない。かくして最も頑固で、騒々しく、粘着な者が勝利することになる。そしてそれは、関係するコミュニティの総意ではない。それは、沈黙が同意とみなされる顔をつき合わせての会議に似ている。議論を中止するのは、必ずしも同意がなされたことを意味するものではなく、相反するグループの片方がそれ以上反対する余裕がないか、もしくはその議論への興味を失ってしまったということなのだ。

思慮深さ

c2.com Wiki の荒地をさまよった後、「思慮深い議論」なんて印象は浮かばない。実際には、その正反対というのが正しい。参加への障壁の低さは、その編集のしやすさとあいまって、いわゆる「スレッドモード」のページを頻繁を作ることを助長している。これらのページは、短いがちぐはぐな一連の一段落の批判や「僕もそう思う」スタイルの余談により構成される。Usenet グループを読んでみれば、そうしたやり取りが大概どういうパターンになるか分かるだろう。それは以下のような感じである。

という具合に続くわけだ。意見の相違で問題は解決せず、議論は脱線し、断定しても支持されず、主張は問題にされない。これは「思慮深い」対話というものではなく、単なるわずかでも一歩先んじるための条件反射的で行ったりきたりのやり取りに過ぎない。

自己調整

Wiki の擁護者は、価値が低かったり誤りのあるコンテンツはすぐにコミュニティにより削除され、かように Wiki は自己調整を実現すると主張する。しかしながら、正しく残す価値があるコンテンツにどれを選ぶかということについての意見は皆異なる。一般的に、内容に同意するコンテンツが「正しい」とみなされ、それ以外は「正しくない」もしくは「オフトピ」で、削除候補となる。思慮深いセルフコントロールの結果によるコンテンツの安定化ではなく、Wiki の議論は、グループの一方が興味を失うまで続く一連の選択的編集である EditWars(編集戦争)の後に安定化する。言い換えれば、「まともな」コンテンツが何であるかということに関して、調整者を自称する人たちの間で同意がないものだから、効果的な「調整」など行われないということだ。コンテンツが明らかに不適切でない限り(例:スパム)、誰もが自由に「調整者」の役割を自認し、どんな基準に基づいてでもコンテンツを削除できるのだ。

結論を言えば、オープンフォーラムの Wiki は、他の多くのオンラインコラボレーションツールの利用が生み出したのと同じものになりさがっている - お互いをアホ呼ばわりし、実生活では無力な連中が自分を大きく見せ、特別な存在だと感じる機会を与えるのだ。

c2.com には、お互いの上位に立とうとするギークの集団がいる。それは病的な慈善行為の競争に似ている。ボタン一押しで削除可能なものを書くのに、誰が喜んで時間を捧げる? 利他主義に勝る Wiki とな。参加者は、何かしら社会学上新しく重要な現象を探究していると確信しているように見えるが、現実にはどんな学生の集団にも見られるのと同じ集団行動を示しているに過ぎない。

要点を語るには、論理的な進行、構造、前提、詳述、結論など、つまりは計画と深慮が必要だ。議論を行うには、筋の通った論拠を理路整然とやり取りする必要があるが、Wiki には理性も合理性もあまり見当たらない。あなたが Slashdot スタイルの30秒しか集中力が持続しない手合いに属するなら、それでも議論なのだろうが。

情報レポジトリとしてのWiki

Wiki 病は、ドキュメントを書く必要があるなどのストレスの多い環境により発症するまで、しばらくの間プログラマの端末に潜伏する場合もある。開発チームが自分達でドキュメントを書かなければならないのに絶望し、どういうわけか Wiki をインストールしてそのドキュメントを格納することに夢中になっているとしたら、その場合多分チームの一人以上の人間が Wiki 病にかかっていると思われる。

重度の Wiki 病患者は、Wiki を自分たちの情報格納に関する問題への解だと考える。ソフトウェアプロジェクトのドキュメントを(外部のドキュメントへのリンクか、もしくは単に文字通りテキストを打ち込んで)Wiki 上に格納し、設計に関する決定をそこに保管し、「TO DO」リストなどを格納するかもしれない。最も平凡な情報であっても、Wiki のクールさの温かな光に触れさせれば、少しはましに、少しは輝いてみえる。

多くの場合 Wiki が優柔不断の口実に過ぎないのは悲しい現実である。

ドキュメンテーションという雑用に直面した際、最近 Wiki 病に感染した人の典型的な抗弁は、「おい! そのドキュメント Wiki に置こうよ! それがクールだって!」である。そうして Wiki のインストール作業が、面白くないドキュメント作成作業を先延ばしにする手になるわけだ。Wiki のちょっとした目新しさのおかげで、短い間熱狂が生まれるかもしれない。Wiki の「クールなところ」さえも、自分たちのコミュニケーションスキルが不十分なことを隠しおおせないことに開発者が気が付けば、その熱狂も必然的にひいてしまうとはいえ。

なので Wiki は断片化された不完全なファイル、逐語的な抜粋やカタログ化が中途のままの文書のゴミ捨て場と化す。つまりそこに情報レポジトリとしての Wiki の二番目の大きな弱点があるのだ - 利用しやすい組織化とインデックスの欠如である。基本的な Wiki の機能に単純な検索機能も含まれるが、ページレベルより深くインデックスやクロスリファレンスを作る助けとなるものはほとんどなにも組み込まれていない。初心者が基本的なところからもっと上級のマテリアルまで勉強できるようなリーディングパスがないのだ。断片的な会話から適切な解説文書は生まれない。また、意見交換は実証的であったり、教育的であったりする必要はないのだ。

既存の「コンテンツ」をもっとちゃんとした順序に並べようと試みても、他の人の野放しの編集に容易に無化されてしまい、その上コンテンツの価値や解説を行うのに最良の手段についてのユーザグループにおける意見の相違により阻止される。インデックス化されていないコンテンツが足元で絶え間なく変わるところで何か探してみてごらんよ。

Wiki道(The Wiki Way)

私が思うに、Wiki 現象で一番癪に障るのは、その周辺に広がる陳腐な精神主義だ。c2.com の Wiki は東洋の精神主義への自意識過剰な言及、すなわち Wiki がどういうわけか禅哲学の象徴であるという雑多な主張が散乱している。その観点が正しいなら、取るに足らないソフトウェアをまじめに考慮するのに必要な視野が欠如しているとは考えにくい。また IT コミュニティの一部の人たちにはびこる自己満足の欲求を示しているとも考えにくい。

あなたが東洋の霊的思索をどのように思っていようが、禅(やそれに関係する思想体系)の基本的な教えや信条に大変通じた人であれば、自我を包摂し、エゴを打倒することがこれらの哲学の中心概念であることはお分かりだろう。c2.com Wiki に散見される、「俺たちを見ろ! 俺たちかなり禅だよ!」と叫ばんばかりの WikiNature(Wiki気質)の自意識過剰であからさまな大騒ぎは、それに求められる主たる価値観と相反するものである。

これこそ最悪の生かじりの仏教じゃないか。東洋の哲学と西洋の無知の痛々しくもぶざまな合体である。禅の哲学を真に理解する者の最もふさわしい態度は、単に黙して語らないことだろうに。

Wikipedia

Wiki の支持者は、Wikipedia を Wiki のコンセプトのパワーと正当性を証明するものとみている。私は Wikipedia を、Wiki の欠点が大変あからさまになった実例だと思う。野放しの編集攻撃に逆らって Wikipedia の健全性を維持しようとすれば、コンテンツになされるどんな編集も抑え、排除する、絶えず Wikipedia を監視する熱狂者の群れに取り囲まれてしまう。Wikipedia の組織基盤が、一般の Wiki とかなりかけ離れているので、規模と熱心さの両方の面で、我々は Wikipedia を Wiki のコンセプトを立証するものではなく、努力一点張りで Wiki のコンセプトの先天的な欠点を乗り越えてしまった一例とみる必要がある。

Wiki病の発生を抑える

同僚の一人が「Wiki をインストールしようぜ」と叫んだら、その熱狂が何に由来するのか注意深く考えること。ドキュメンテーション、設計、技術的な決定、さもなくば Wiki を使えば表向き楽になるとされる何らかの活動そのものに Wiki と同じくらい熱心でないのなら、それならどうして同じ活動を行うというのに、Wiki を使うのに熱心なのだろう?

Wiki を利用するほとんどどの作業に関しても、同じ仕事をより良くこなす何か他のツールを見つけることができる。やり遂げようとしていることが重要なものならば、それならもっと役に立つ選択肢を見つけ、評価することに時間とお金を投資すべきである。

分散する議論を円滑にする何らかの手段をお探しなら、phpbb などのフォーラムや掲示板ソフトウェアの類の利用を考えること。モデレーション、スレッド、基本的なナビゲーションと検索機能を提供する大変たくさんの選択肢があり、それらの多くは無料である。ユーザは他が誰かが投稿を削除することを心配する必要がないのだから、Wiki で議論するよりもそうしたフォーラムに参加する大きなインセンティブがある。

グループの決定結果を公開する何らかの手段をお探しなら、単に会議を開き、投票を行い、その後参加者に議事録かポジションステートメントを配布することだ。参加者が一つの部屋に集まれないなら、遠隔会議機能か電話会議を利用すること。

チームの情報や進行状況の報告に関しては、Wiki よりも遥かによい選択肢がたくさんある。共有ディレクトリでホストされる単純なウェブページがあれば、一箇所にいるチームには十分だろう。チームが分散している場合は、フリーのブロギングソフトウェアか、さもなくばこの領域に利用できる商用パッケージをどれか利用することを検討すればよい。

選択されるソフトウェアのいかんに関わらず、オンラインの議論から得る恩恵の制限要因は、その参加者自身である。平均的なソフトウェア開発者のコミュニケーションスキルが劣っていると仮定すれば、とても多くのオンラインフォーラムが、同じような子供じみていて無神経なコンテンツばかりなのか理解するのは難しくない。参加者のコミュニケーション能力を向上する努力をすることが役に立つかもしれない。Wiki のようなツールが、ユーザにそうしたスキルを何らかの形で吹き込むなどと考えないこと。そうしたスキルには訓練が必要であり、Wiki の段落レベルの思考は十分な実践とはいえない。

結論

1995年に出現して以来、Wiki のコンセプトは後退してきた。哲学的な自己満足をどれだけ弄しようが、Wiki に付随する機能的欠点を補うことはできない。その正しい利用か誤用なのかを責められるツールを支持することはできないし、また我々が利用するその種のツールが、我々の仕事に影響を及ぼすのを否定することもできない。従って、我々自身もしくは他の人たちが単に目新しいというだけで劣った選択肢にひきつけられるのを許すことなく、目先の仕事を最も楽にするツールを選択するよう努めることだ。

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初出公開: 2005年03月14日、 最終更新日: 2005年03月14日
著者: Mr Ed
日本語訳: yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)
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