yomoyomoの読書記録

2009年07月21日

スコット・ローゼンバーグ『プログラマーのジレンマ 夢と現実の狭間』(日経BP社) このエントリーを含むブックマーク

表紙

 本書は、Joel Spolsky の書評(邦訳は『More Joel on Software』に収録されている)を読んで知り興味を持ったが読みそびれ、最近になって小林啓倫さんの書評を読んでこれは面白そうだと思っていたところに日経 BP 社の編集者より献本いただいた。ありがたいことである。

 一言で感想を書くととても面白い本だった。本書はミッチ・ケイパーが自身の夢を実現するオープンソースの PIM(個人情報管理)ソフトウェア Chandler のはじまり、開発、そしてその沈滞を描くノンフィクションである。

 ソフトウェア開発の理想的な環境が何かとなると意見が分かれるところだろうが、チャンドラーを開発する Open Source Applications Foundation(OSAF)の体制はかなり恵まれたものであったのは間違いない。ミッチ・ケイパーというハッカー文化に理解のある大物のパトロンがまずおり、そこには彼らの生態を知らずノルマを押し付ける管理職や、勝手に機能を安請け合いする営業はいなかった。集まった技術者もアップルやネットスケープで活躍した一線のプログラマーたちで、しかも彼らはミッチ・ケイパーをはじめとして謙虚さを兼ね備えており、この手のデスマーチ話につきものの攻撃的な逸話はほとんどない。

 しかし、それでも開発は先に進まず、それぞれの事情から開発者は OSAF から離れていく。本の真ん中あたりでは著者から以下のような言葉が入るくらいだ。

 さて、ここまで読んだソフトウェア開発者の読者は、「いいかげんにしろ。この本のやつらはありとあらゆる間違いを犯しているじゃないか」と見放して本を放り出している頃ではないだろうか。

 そのようなプログラマーの多くは、「自分ならこんなことはしない。もっとうまくやれる」と考えていることと思う。(238ページ)

 本書はデスマーチのドキュメントとしても優れているが、それよりもフレデリック・ブルックス(『人月の神話』)、エリック・レイモンド(『伽藍とバザール』)、リーナス・トーバルズ、ダグラス・エンゲルバート、ジェラルド・ワインバーグ(『プログラミングの心理学』)、ウォード・カニンガム(WikiWikiWeb)、クレイ・シャーキー(が再発見したクリストファー・アレグザンダー)、チャールズ・シモニー(ハンガリアン記法)、ワッツ・ハンフリー(CMM)、ケント・ベック(エクストリーム・プログラミング)、ジョエル・スポルスキー、アラン・ケイといったコンピュータの世界の偉人たちの仕事をストーリーを語るのに欠かせざるピースとして巧みに紹介していて、そうしたところがサイモン・シンの『フェルマーの最終定理』に近い感じがあった。

 もちろん本書を『フェルマーの最終定理』並の名作と言うつもりはなく、何より本書に『フェルマーの最終定理』のような鮮やかな読後感はないし、チャンドラーの停滞とともに時間切れといった感じで本書は終わる。そして最後の読者の中に残るのは、本書のはじめに引用されているドナルド・クヌースの「ソフトウェアは難しい」というシンプルにして打ち崩すことのできない言葉である。

米国標準技術研究所の二〇〇二年の調査によると、ソフトウェアプロジェクトの三分の二が大幅に納期に遅れるか予算をオーバーするか、あるいは完全に中止せざるをえなくなり、ソフトウェアの欠陥のためにアメリカ経済は年間約五九五億ドルを負担している。(19ページ)

 本書はその難しい問題に対する回答は与えないが、歴史的経緯を網羅したドキュメンタリーであり、いささか長いもののとても面白い読み物である。


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