yomoyomoの読書記録

2008年07月07日

栗原裕一郎『<盗作>の文学史』(新曜社) このエントリーを含むブックマーク

表紙

 先日本書の著者である栗原裕一郎さんらとご一緒させていただく機会があり、その集まりをセッティングして下さったソフトバンク・パブリッシングの上林さんの、「この人は献本が届くのに半年かかるくらい田舎に住んでるから――」という言葉に栗原さんが気前良く見本誌を当方にくださり、栗原さんの初の単著を発売前に読むことができた。

 全体で500ページに迫る文句なしの大著である(目次詳細)。はじめその厚さにたじろいだ。そして本当に本書を読んで楽しめるか危惧する気持ちが正直あった。というのも、理由は後述するが、本書の叩き台となった大月隆寛監修『田口ランディ その「盗作=万引き」の研究』周辺(この本自体は読んでいないのでこういう書き方になる)を必ずしも好意的に見ていなかったからである。

 しかし、本書はその危惧を覆して余りある面白い本だった。帰りの新幹線でこの厚い本を興奮しながら一気に読破した。

 著者はまえがきで、この著者らしくばっさりと切り捨てる。

 実際、盗作事件というのは、調べれば調べるほど、どれもこれもたいていしょぼくてせこくて、ときに笑ってしまうほど情けない。

 それはしかし、かならずしも盗作という行為そのものの"しょぼさ"だけに依っているわけではない。事件を語る言葉の貧しさ、報道するマス・メディアの姿勢からもたらされる印象でもある。いやむしろ、盗作事件とは本質的にメディアの問題であるとさえいえるほどだ。

 投げやりのようにも読めるかもしれないが、ここに書かれている冷静な認識は本書を通して貫かれており、事件を片方からだけ見て当事者を口汚く罵る記述や、無理やり話を面白くせんとする邪推は皆無で、それが本書の価値を高めている。著者自身認めるように類書、またかっちりした判例も絶無に近い現状で、しっかりと一次資料にあたった「日本文学盗作大全」の名に恥じない労作をものにするのは、とてもではないが投げやりな姿勢で実現できることではない。


 本書は「序章 盗作前史――偽版、大作、著作権」から歴史を紐解くが、ここからいきなり引き込まれる。この手の話は、(当事者の後ろめたさや伝える側の理解の浅さなどから)著作権侵害、盗作、盗用、剽窃、無断引用、パクリ、と法律用語や俗語や業界ジャーゴンが入り混じってしまうわけだが、著作権の確立とその理解(の欠如)、海外文学や古典の翻案、文壇の形成と代作の問題、そしてゴシップを含め盗作はメディアの事件であるという認識――この序章は後の章を読む上で必要なこうしたポイントをしっかり示しており、それに照らして読むことで焦点が定まる仕掛けになっている。

 そしてタイプ分けされた個別の事例を見ていく第一章からは、メディアの事件、そして文壇の事件としての盗作事件について書かれているわけだが、何というか「しょぼくてせこくて、ときに笑ってしまうほど情けない」の連続である。

 それは「盗作」した側であったり、それを伝えるメディアであったり、「盗作」について論評する同業者であったりするのだが、開高健の最大の理解者であるはずなのに、開高の代表作からの剽窃を見逃し新人賞を与えた挙句言い逃れを弄する佐々木基一、山崎豊子の盗作(個人的には、山崎豊子と朝日新聞の暗闘についてあと一歩踏み込んで書いてほしかった)を「著作権というものをよく知らない」厳しく批判しながら、後に学術書からの転載が発覚した際に珍妙な著作権解釈を披露した「文芸家協会会長」丹羽文雄などあきれるばかりだし、小ネタを集めた第八章にも、盗作の謝罪文が原因で告訴された(!)車谷長吉がいたりして役者には事欠かない。

 唯一他とは違った風が吹くのは、寺山修司の「チェホフ祭」の話ぐらいだろうか。

 そしてワタシのようなネットユーザにとって気になるのは「第七章 インターネットという新しい告発装置」である。上で書いたように、ワタシが田口ランディの盗作を追及する動きを、ワタシ自身彼女のエッセイの読者ではあるが小説はまったく読んだことがないにも関わらずあまり好意的に見てなかったのは、事実誤認やこじつけにいたるものまで「まとめサイト」に掲載されることで既成事実化される危険の加速を感じたからだ。そして、その危険性が現実のものとなったのは、出版社側が安易に疑惑の対象を絶版まで踏み切るようになった現状を見れば明らかだろう。


 「盗用」「剽窃」か否に明確な基準があるわけではない。実際、本書の比較引用を読んでみて、「この程度でも盗作と言われてしまうのか…」と自分自身雑文書きとして少し怖くなったところもある。

 上で書いた問題について、著者は「マスメディアから集合知(痴)へ」という言葉で表現している。前田塁が指摘する「共感の坩堝」の中に2ちゃんねるのような場も含まれることを著者はちゃんと記述しているが、

 もっとも、かつてマスコミ、とりわけ『朝日新聞』がしきりにやった「作家のモラル」糾弾キャンペーンと、ネットのパクリ糾弾とで何がどう違うのか、たんに断罪のイニシアティヴが大マスコミから不特定多数の匿名が織りなす「集合知(痴)」に渡っただけではないかと考えれば、事態はじつはそれほどには変わっていないのかもしれない。

というのはどうだろう。当方はたんに断罪のイニシアティヴが変わっただけとは思わないのだが。

 さて、この大著を読み終わり、これはすごいと感嘆したが、果たしてどういう人たちにどのように勧めたらいいのだろうか、と少し途方に暮れてしまった。とてもではないが新書を勧めるのと同じ書き方はできない。著者は渋い二枚目なので堂々と帯に写真を入れても良いのではないかと思うがそれは大きなお世話だし、チェックの黄緑のジャケットは恐らく著者の美意識が許さないだろう。

 しかし、これは大変な仕事であるし、ネット時代の著作権のあり方について議論が活発になされているが、創作者の認識や感情、メディアの問題などを知る上で重要な書籍であることは間違いない。


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