yomoyomoの読書記録

2011年03月22日

円堂都司昭『ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー』(ソフトバンク新書) このエントリーを含むブックマーク

表紙

 著者に献本いただいた。

 以前にも書いたが、ワタシが著者の文章(遠藤利明名義)にはじめて触れたのは、およそ20年前のロッキング・オンにおいてである。15年あの雑誌の読者だったワタシは、遠藤さんの文章の愛読者でもあった。氏のピーター・ガブリエル原稿を読んで、ワタシは売文屋になることを諦めたくらいである。それほど影響を受けた氏と数年前にお目にかかる機会があったが、感激と動揺で頭がグルグルになってしまい、オナニーしたら精液に血が混じっていた話をして感謝を伝えるのが精一杯だった。

 「まえがき」において著者は、批評を「世界と「私」について考えること」とシンプルに定義した上で、本書をカーナビゲーションシステムになぞらえている。本書を読むと、80年代にポップスター的存在でありながらその後すっかり高踏的に取り澄ますようになった浅田彰との対比を背景にしながらゼロ年代批評において「一人勝ち状態」になったとされる東浩紀を中心に論じる第一章「ゼロ年代批評のインパクト」からスムーズに読める。

 しかし、各々の議論の接続性や類似性、そしてその結節点たる「論点」を見出し、「ゼロ年代批評コンテンツの生態系」をまとめるのには相当の苦労があったはずだ。ワタシは本書を再読したときに、そのスムーズさの裏にある苦心を感じたが、議論を通り一遍なぞるだけでなく、もっと展開できたはずの論点も示唆するなど本書はこの手の一種のガイドブックでは珍しく再読に足る膨らみのある本だと思う。

 思えばこの「接続性」の発見とそれについての語りは、著者の文章の大きな魅力の一つである。そうした意味で、ネットと社会の関係を論じながら、ミステリー小説、阿部和重『シンセミア』、平野啓一郎『決壊』、『ドーン』に接続してみせる第2章「ネットの力は社会を揺さぶる」がもっとも著者の語りがイキイキしてるように読めた(第4章「データベースで踊る表現の世界」における「八十年代との連続性」も近い)。「しかし、ここでは思想的な議論に踏み込むよりも、まずバイクについて語りたい(48ページ)」といった幻惑させられる唐突な文章も著者らしく、第3章「言葉の居場所は紙か、電子か」を津田大介『Twitter社会論』からはじめるのもちょっとギョッとしたな。

 このようにいろんな「接続性」を見出せる本書であるが、当然ながら全方位的ということはなく、どうしてこの人の仕事に触れないのかという不満はやはり出てくる。しかし、それは著者自身承知しており、まえがきで「政治、経済、労働といった問題については本書のテーマにかかわってくる場合だけ扱う(6ページ)」という方針を明記している。第一そこまで含めたらとてもじゃないが新書一冊に収まらないか。

 それでも「何でこいつの仕事が章立てにあがるのか?」と疑問を感じる人もいるのだが(誰かは書きません)、鈴木謙介、荻上チキ、速水健朗など取り上げるべき人の仕事について的確な紹介をしていると思う。

 本書の副題は「ウェブ・郊外・カルチャー」だが、正直どうもこれにしっくりこなかった。ゼロ年代を語る上でウェブと郊外は欠かせないわけで(後者は特に象徴的ですね)、それならカルチャーにかわるのは何かと問われるとワタシも自信がなくなるのだが、率直な実感としては「不況」になる。しかし、これは新書のタイトルにはならんわな。

 第5章「変容するニッポンの風景」を経て(『思想地図vol.3』を読んでいてよかった)、本書は終章「二〇一〇年代にむけて」にいたるわけだが、最初読んだときはこの最後が穏当というか迫力に欠けるように思えた。しかし、再読して「「現実」の時代」の文字を見たとき、これも東北地方太平洋沖地震の影響なのだろうがずしりとくるものがあった。


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